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イベントレポート

受験は何を評価し、何を見落としてきたのか? ──教育のグランドデザインを巡る異色トークセッション【イベントレポート】

明治以来、出自に関わらず「自らの力で道を切り開く公平な道具」として機能してきた日本の受験制度。しかし、少子化による定員割れや中学受験の過熱化、SNSによる情報過多など、受験を取り巻く環境は今、大きな転換期を迎えています。
本記事では、「RES教育カンファレンス2026」にて行われた異色トークセッションの模様をレポート。基調講演に登壇した苫野一徳さん(哲学者・教育学者、熊本大学教育学部准教授)、小川大介さん(教育家、才能タイプ子育て研究所所長)に加え、新たに南風原朝和さん(東京大学名誉教授、広尾学園中学校・高等学校校長)を交えて展開された、「妥当な順位付け」のあり方から公教育が目指すべき「構造転換」、そして理想と経済的現実の矛盾まで、教育のグランドデザインを巡る本質的な議論に迫ります。

受験の歴史的意義と現代の歪み

RES理事長(以下、理事長) まず、南風原先生に伺います。受験というものは、何を測る制度として設計され、実行されてきたのでしょうか。

南風原 受験がなぜあるかと言えば、定員があるからです。苫野先生のご講演で多様化と序列化の話が出ました。たしかに体育学部に行きたい人もいれば、教育学部に行きたい人もいて、その意味では多様です。ただ、それぞれの中で枠があるので、そこで序列が必要になってくる。

私はテスト理論を専攻していたので、どうやったら正確で公平な測定、あるいは公平な序列化ができるか、その技術や理論を考える立場で受験を見てきました。

私の一つ前の世代くらいまでのテスト研究者の間では、テストは自由を生み出すものだということがよく言われていました。出身や家柄といった制約から自由になり、自分の力で道を切り開いていく。その道具となってくれるのが、公平なテストだという考え方です。

しかし、時代が変わってきて、定員割れの学校が出てきました。明治以来、枠があって競争がある、というのが当然でしたが、最近では大学でも定員割れがある。私立中学でももちろんあります。

そうすると、枠があるから受験が必要だ、という前提が変わってきてしまった。では誰でも入れてよいのかというと、そうではない。序列化以外の入試の役割が出てきたのが変化だと思います。

妥当な順位付けとは何か

理事長 今、序列という重要な概念が出てきました。テストが妥当なものでなければ、その序列にも納得感が生まれないということだと思います。テストの妥当性は、どう考えればよいのでしょうか。

南風原 妥当性とは、測ろうとしているものを本当に測れている程度です。ただ、そのためには、何を測ろうとしているのかという概念を明確にしなければなりません。そこが明確でない限り、妥当性の議論はできません。

たとえば学習指導要領にある「学力の三要素(『知識・技能』、『思考力・判断力・表現力』、『主体性(主体的に取り組む態度)』)」は、特に「思考力」など、非常に曖昧な概念です。そのため、テストによってそれを妥当に測れているかという議論自体が非常に難しいです。

南風原さん

理事長 そういう意味で、現在の受験制度において「妥当性の問題」と「順位付け(序列化)の問題」の2つがあるとしたときに、先生の立場としては、今どちらの方が特に問題視されるべきだとお考えですか。

南風原 妥当性と順位付けというのは、決して対立するものじゃありません。むしろ『妥当な順位付けをする』ということこそが、テストの狙いです。
ただ、教育的な観点から見ると、試験で良い成績を取ろうとすることが、そのまま子どもにとって『良い学び』になるように設計されているか、という点は決定的に重要です。

その点、たとえば東京大学の入試問題などは非常に評判が良いですね。東大を受けるか受けないかにかかわらず、その問題を解けるようにという指導や学習は意味があると受け止められています。

それに対して中学受験はどうなのかというと、小学校の学習指導要領との対比で言うと、ちょっと行き過ぎているのではないか、という教育面の懸念を持っています。中学受験も枠があって競争が激しくなってくると、学校側もかなり特殊な問題、つまり『塾に行かないと解けないような問題』を作らざるを得なくなっていきがちです。そして塾の方も、その特殊な問題の中で子どもを教育する。

さらに大きな懸念は、受験生の発達段階にあります。まだ精神的に幼い小学4年生や5年生がそのレールに乗せられ、仮に『不合格』という結果を突きつけられたとき、その影響は小さくありません。大学受験の不合格であれば、ある程度年齢的にも対処できる、割り切れる部分がありますが、中学受験での不合格は、人生においては大学受験の不合格に比べると小さなことだと思うのですが、発達段階の幼さゆえに、非常に大きなリスクになってしまう。そういった点も含めて、中学受験のあり方にはいろいろな懸念を感じています。

受験は、どんな社会のためにあるのか

理事長 次に、苫野先生にお話を伺いたいと思います。先ほどのご講演の中で、私たちが目指すべき社会のあり方として『自由の相互承認』という前提を提示していただきました。この視点に立ったとき、学力というものが『人が人生を生きるための自由の力』につながっているのか、それが本当に育まれているのか。そして現在の受験が持つ序列化の側面が、子どもの感度を毀損していないか。今の受験というものを特に見たときにどのように考えていらっしゃるか、ちょっと深掘りしてお話をしていただきたいです。

苫野 今、南風原先生のお話を伺って、私の専門である哲学と、先生のご専門であるテスト理論というものをちょっと架橋してみたいと思います。

まず、我々は『どんな社会を目指すのか』というグランドデザインを、最初にしっかりと設定する必要があります。その大目的のために、じゃあ受験はどうあるべきか、と落とし込んで考えていく必要がある。受験制度一つ見ても、世界に目を向ければ、たとえば大学受験がほぼ存在しないようなオランダとか、そういった国もいっぱいあるわけです。もちろんそれぞれの国には歴史的な経緯があるわけですけれども、しかし我々がどういう社会を目指すのかという大きなビジョンを描く必要がある。

日本の場合、どんどん競争させて、それによって個々の社会的ステータスを決めていくんだというような、南風原先生のおっしゃる通り、明治のときからの国策としての流れがあります。実は、明治の一番最初の小学校教育は、今よりもむしろ受験戦争が厳しかったという話もあるくらいなんですね。

しかし、これから100年、200年先を見据えたときに、どういう国になっていくべきなのか。私は『自由と自由の相互承認』、これを軸とするならば、今後も一定の学力競争はもちろんあって構いませんが、「序列化の伴わない多様化」というビジョンを描くことには、十分妥当性があると思うんです。

大きく見たときに、みんなが自由に生きられるか、それに向かって学んで成長できるか、そしてお互いのことを認め合えるか。こういう社会を作っていこうとするならば、そのために受験というものをどう作り直していけばいいか。そう考える。その上で、では何をどのように測定するのかを、テスト理論がしっかりと明らかにする。

苫野さん

ただ、『自由』と『自由の相互承認』はものすごい大きな抽象概念です。これをこれからはもっと具体的に、まさに操作的に定義し直してみる必要がある。何をもって自由が実現できたと言えるのか、それを実現するための力とは何なのか、これをどんどん具体化していって、それをできるだけしっかり測定できるようするという形に理論化していく必要があるのかなと思います。たとえば全国学力・学習状況調査を学力を測るときに使うとしても、これが測っているものは本当に自由や自由の相互承認に繋がっているのかを考えないといけません。これが哲学からすると大事で、何を、何のために、どのように測るのかということを、私たちは常に本質から考えなければならないということです。

理事長 明治時代には、それまでのいわゆる封建的な社会の中で様々な制約に縛られていたところから、純粋にテストという誰もが受けられる学力測定によって選抜が行われるようになった。そちらの方がフェアで人々を自由にするんじゃないか、ということでスタートしたわけですが、こうした歴史的な自由の意味についてはどうお考えですか?

苫野 その当時は確かにそうだったと思います。しかし今はもう、経済資本や文化資本が子どもの「学力」とリンクしているということがはっきりしています。そう考えると、結局どこの家庭に生まれたかで成績も変わってくるということになっている。全然フェアではないわけです。いわゆるペーパーテストは公平であるというのは、決して妥当ではない考えだと思います。だからこそ、改めて、できるだけフェアで、またすべての子どもの自由を実現するための仕組みを考えていく必要がある、と思います。

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