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教員が主体的に働ける環境とは
働き方改革に関連して、ある参加者から、学習塾で講師をしていた頃の経験を紹介しました。授業が終わり、社員が帰った後も、学生講師たちは校舎に残り、深夜まで授業やテストについて議論していたといいます。
「納得のいく授業をしたい。納得のいくテストをしたい」
追加の報酬があったわけでも、残ることを命じられたわけでもありません。よりよい授業をつくることが面白く、自分たちの意思で議論を続けていたのです。
この経験から、働き方改革には二つの側面があるのではないかという意見が出ました。
一つは、健康的な生活や収入を保障し、人として安全に働ける環境を整えること。もう一つは、教員が仕事の意味や面白さを感じ、「もっとよい授業をしたい」と思える環境をつくることです。
長時間労働を肯定することはできません。しかし、働くことをすべて負担として捉えれば、教育者が主体的に授業をつくる喜びまで失われる可能性があります。
別の参加者は、授業そのものが、生徒との重要なコミュニケーションになると語りました。
「授業をしているかどうかで、生徒との関係性のつくられ方はかなり違います」
授業で何を語り、何を大切にし、どのような姿勢を示すのか。そうしたものを通じて、教員の考え方や気持ちは生徒に伝わります。教員の仕事を減らす目的は、勤務時間を短くすることだけではありません。授業を考え、子どもと関係をつくるための時間と力を取り戻すことにあります。
同時に、公教育は、学習意欲や家庭環境、行動上の課題にかかわらず、すべての子どもを受け入れます。教員個人の熱意だけで、その役割を支えることには限界があるのです。
テストを何のために使うのか
続いて、議論は受験とテストのあり方に移りました。進行役は、なぜ受験やテストによって公教育が崩壊すると考えられるのか、また、どのようなテストであれば公教育のなかで機能するのかと問いかけました。
ある参加者は、テストそのものではなく、テストの平均点を上げることが目的になってしまうことが問題だと指摘。本来、子どもの学習状況を知るためのテストが、自治体や学校を評価するために使われると、教員の関心が目の前の子どもから点数へ移ってしまいます。
「テストをすること自体が悪いのではありません。先生たちの意識が、点数へ向いてしまうことが問題です」
学習塾に関わる参加者は、学力テストを「身体検査」のように扱っている地域の事例が紹介しました。特別な事前対策を行わず、学校間の競争にも使わず、子どもの現状を確認するために利用するのであれば、テストは教育を歪めるものではなく、状態を知るための道具になります。
また、別の参加者は、テストの役割を次のように表現しました。
「テストとは、できないところを発見するものではなく、努力した変化量を褒めてくれるツールです」
テストの結果を、子どもを序列化するためではなく、これまでの取り組みによる変化を本人へ返すために使うという考え方です。同じ点数でも、何のために使うかによって意味は変わります。学校や教員を選別するために使えば競争を生みますが、子どもの成長を支えるために使えば、次の学びにつながるフィードバックになります。
テストをめぐる議論は、大人が持つ人生観にも広がりました。ある参加者は、全国規模の共通試験によって順位づけされてきた世代が、現在の子育てや社会の中心にいると指摘。数値が高い人ほど選択肢が増え、幸せになれる。偏差値の高い学校や、規模の大きな企業ほどよい。そのような考え方が、無意識のうちに社会へ浸透しているのではないかという意見です。その参加者は、学校について次のように語りました。
「学校は生徒がつくるものです。自分がどのように参加するかによって、卒業するときによい学校だったと思えるかどうかが決まります」
学校を、完成された教育サービスとして受け取るのではなく、自分もその場をつくる一人として参加するという考え方です。
また、地域によって、望ましい人生の形が異なることも話題となりました。大学へ進学し、地域を離れることよりも、地元の企業で働きながら農業を続け、地域に残ることを望む家庭もあります。
「高学力=幸せというのは、都市部では神話のようになっています」
ただし、学力によって選択肢を広げることに価値を感じる人もいれば、地域で暮らし続けることに価値を感じる人もいます。教育が多様な子どもを包摂するためには、学び方だけでなく、幸福の捉え方についても多様性を認める必要があります。
共通性と多様性をどう両立させるか
一方で、すべてを個人の選択に委ねればよいわけではないという意見も。ある参加者は、共通テストには、社会の構成員が対話するための「共通言語」を保障する役割もあるのではないかと述べました。社会で話し合い、民主主義的に意思決定するためには、一定の知識や経験を共有している必要があります。
「多様性は、共通性と表裏一体で考える必要があります」
公教育に必要なのは、全国一律の教育か、完全な個別化かという二者択一ではありません。社会の構成員として必要な共通性を保障しながら、個人や地域によって異なる関心、進路、幸福を尊重することです。
高校段階では、地域の文化や自然、企業と連携し、生徒が自分の関心に応じた学びを選べる学校づくりも提案され、共通する学びを持ちながら、地域や学校ごとに異なる方向へ分かれていく仕組みも、公教育の一つの可能性として語られました。
輪読会の終盤には、学校だけに公教育を背負わせることの限界も話題となりました。
「公教育だけで議論していても、らちが明かないのだと思います」
学校や教員だけに教育の責任を集中させるのではなく、地域のコーディネーター、企業、民間教育機関、行政、保護者など、学校の外にいる人々が関わることが必要だという意見です。
教育の外にいる人が学校へ入ることで、教員だけでは生まれなかった取り組みや出会いが生まれる可能性があります。
それは、教員の仕事を外部へ委託することではありません。学校が持つ専門性を中心に置きながら、社会全体で子どもの学びを支えることです。
異なる立場の実践者が対話する場
今回の輪読会では、公教育の理想像について、一つの答えが出たわけではありません。効率化するか、しないかではなく、何を効率化し、何を守るのか。テストを行うか、なくすかではなく、誰のために測り、結果を何に使うのか。共通性か、多様性かではなく、何を共有し、その先にどのような違いを認めるのか。議論を通じて、それぞれの問いが少しずつ捉え直されていきました。
参加者からは、次のような感想も語られました。
「評論家がいなくて、みんながそれぞれ実践者だったことがよかった」
「批判で終わらずに、ではどうするのかを各自で考える。こういう輪が広がることが、教育改革であり、概念改革だと思います」
学校、学習塾、教育行政、教員養成、メディアなど、異なる現場に立つ人々が、自分自身の前提も問い直しながら対話すること。今回の輪読会は、公教育を社会共通資本として考えるための、多くの問いが共有された場となりました。
RESmedia編集部
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