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インタビュー

第2回 科学と武道の交差点で「型」を再考する 大庭良介さん(筑波大学准教授)②

教育サービス開発評価機構(RES)が送る勉強会の第3回のテーマは「身体知」。4月21日に開催されるオンラインセミナー「不確定時代の身体と学び ~身体知が学びの新たな地平をひらく~」に先駆けて、登壇者の一人、大庭良介さん(筑波大学准教授)に、生命科学から武道まで、幅広い分野における「型」の概念を再考し、新たな認識論について語っていただきました。(全3回の2回)

不二

RES インテグリティーは、離散と連続的な捉え方でもいいんですか? ディスクリート(個別)かコンティニュアス(連続的・継続的)か? 要は、要素を分解すると数直線のもとで一つ一つ自然数レベルで見るというよりは、コンティニュアス、一連なりになっていって、その要素を具体化していくと自然数とか整数みたいになっていくということでしょうか?

大庭 インテグリティー世界でも、そこはどちらか一方というよりも両方がカバーされていて、分断的、個別的であるけれど、連続的でもあって、曖昧だと思っています。それはどういうことかというと、たとえば、インテグリティー世界の認識の仕方で原子と分子を考えたときに、原子というものは分子の一部である。さらに分子の上にタンパク質、そして、細胞がある、みたいな感じで、階層的に要素の集団が構築されている。そこでは、原子が持っていない特質を分子が出せるわけですよね。同様に、分子が持っていない特質を細胞が出せるわけですよね。そこでは、細胞という存在が分子の細胞内でのあり方を決めていると同時に、分子がどう細胞で振る舞うかをある程度規定していくわけです。分子という存在は、原子の振る舞いによって、ある程度規定される。機能面での階層性があるということで分断と個別性がありながらも、存在としては部分と全体が常に連続的に繋がっています。

RES これは、すごく包括的な枠組みになって、認識形式という意味では、広がりを押さえておられて、すごいと思って聞いていました。科学の要素還元主義でこれまでやってきたことの限界が問題意識としてあることは、世の中的に何となく共通認識として広がりつつあるような気がしているのですが、そう考えると、今回、要素還元ではないものを考えるときに、インティマシーという考え方があるのは、すごく意義がありますと思います。

大庭 実はそこもちょっと違うと思っていて。要素還元の先には総合が待っているんですよ。科学は要素還元していただけではないんですね。カントの時代から総合しようとしているんです。全体を捉えようとしているので、最終的にホロン*みたいな話がポストモダンで出てくるわけですけども。ただし、それをインテグリティー的に、存在と関係性を外的な関係で捉えようとするのが問題だと思っています。

RES なるほど。要素還元から総合というスペクトラムはこうなんだけど、捉え方が外からか中からかという違い?

大庭 これは大きな違いであると思っています。『「型」の再考』を出版したときには、気づいてなかったんですけど。

RES これを身体という誰もが感覚的に自分のものとしているところに寄せて話していくとすごくわかりやすいと思います。例えばゴルフは、ゴルフスイングは3Dなので、基本的にどこかだけ固定して、どこかだけ振り子みたいにやればいいっていう運動では絶対になくて、対内、対外はやりつつも、脊柱を回転させる3Dが必要になってくるという意味では、バラした機能解剖学の体のパーツそのものをいかに共鳴化させていくか、クラブと地面と重心コントロールに繋げていく、こういう話だと思います。そう考えると、すごくこの概念がしっくり頭に入ってきます。

大庭 仰る通りで、そのときに考えるキーワードというのが、ケン・ウィルバーという人の考え方です。人の発達は、一元(生物・身体・前意識)のところから、人として心身の分離が可能になり、合理的なことができる二元の意識になって、その後、非二元・不二的な超意識へ至っていくと(図3)。今、身体論で教育関係者の皆様が期待されていることは、この二元になったものをどうするかという話だと思うんです。ウィルバーはトランスパーソナル心理学の人ですけど、彼曰く、今までの心理学、ユングにしろ、フロイトにしろ、アドラーにしろ、もう一回、一元の方に戻ることで心理治療を実現しようとしているが、そうではなくて、非二元・不二の世界に行かなければいけないとのことなんですね。

そこでは「『一』というのと『不二』というのは違う」というところがすごくポイントで。話を戻すと、この「型」の世界、共鳴の世界は、不二の世界に行く方法論で、その不二の世界に対して、前意識的な無意識で一元に戻るのではなくて、“自覚的”に不二の世界に到達するための方法だと考えています。

これもウィルバーが「肉の眼(感覚・感性)」「心の眼(理知・悟性・理性)」「黙想の眼(超越・観想・精神)」という言葉を作って説明しているのですが、こちらにカントの感性・悟性・理性を当てはめてみる(図3)と、肉の眼は感性的なもので、心の眼は理知の眼で、悟性はいわゆる感覚にアプローチするところで働き、理性はいわゆる理論的・概念的に経験されるようなモノコトで働くことになる。

ウィルバーの場合はさらに、ちょっと宗教的な言葉を使って超合理的みたいなことを言ってしまうんですけど、観想の眼という悟りの眼みたいなのがあって、非二元的な合一的知にたどり着く。じゃあ、この知を把握するための、感性・悟性・理性に該当するものは何か、というところで、適当な概念がないので現在考え中でして、観性と覚性という言葉を仮に置いています。

そうすると、先ほどの身体論にしろ、心の眼の理性なところで止まっているような感じがしています。二元的でも多義性であったり、非二元的な不二性は扱えていないなと。

RES 二元的と仰っているのは体と頭ということですか?

大庭 はい。身と心が分かれている。

RES どちらかと言うと、脳を身体と捉えてないっていう世界ですか?

大庭 というよりも、視点の問題があると思います。我々が赤ちゃんからだんだん発達していって今に至るところを考えていただければいいと思います。最初、物理的な存在として、お腹の中にいるときのことを覚えてないですよね? つまり、意識がある前意識の段階がある。そこから世の中を何となくわかるようになってきて、だんだん意識が出てくる。だけどその意識というのは、自分と融合している意識で、自分からの視点なんですね。まだ一元の世界に近い。そこから発達をしていくと、他人の視点とか、社会的な視点を持つようになる。つまり意識を自分自身から分離した視点として扱うことができる。これが二元の世界。いわゆる科学、合理の世界ですよね。だけど分離してしまったがために、いわゆる精神病理学的にはいろんな分裂だったり、コンプレックスが出てきたりとかいう話になってくる。二元として存在する心と体、これを不二的にどう扱うかというところでしょうか。

*哲学者アーサー・ケストラーが1967年の著作『機械の中の幽霊』(“The Ghost in the Machine”) において造語的に用いて重要視した物の構造を表す概念

【最終回へ続く】

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