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インタビュー

【インタビュー】第1回「身体知」を「守破離」の見地から語る 西平直氏(京都大学名誉教授)最終回

教育サービス開発評価機構(RES)が送る勉強会の第3回のテーマは「身体知」。4月21日に開催されるオンラインセミナー「不確定時代の身体と学び ~身体知が学びの新たな地平をひらく~」に先駆けて、登壇者の一人、西平直氏(京都大学名誉教授)に著書『稽古の思想』や世阿弥、守破離などをテーマに「身体知」についてお話を伺った。(全3回の最終回)

怒り

RES そもそも世阿弥は10人弟子がいたら10人「守破離」の「離」まで持っていこうと考えてたんですか?

西平 まず一つ、世阿弥自身は「守破離」という言葉を使っていません。しかし、ちょっと極論ですが、世阿弥はそう思っていた。逆に言うと、それができると見込んだ者しか弟子にしなかった。そこは実は「守」に入る前の話。世阿弥の話は、言ってみればエリート教育みたいなもんで。見込みがある者のことだけ考えている。そこが悔しいわけですよ。だから「破」には、その怒りの話が出てきます。

RES そうですよね。

西平 その怒りは、それまでの師匠に対する怒りであったり、そこに従ってきた自分に対する悔しさであったり。それが稽古のパトスになるのかもしれない。

RES 師匠に対する怒りはすごくよくわかるというか、一生懸命真面目にやればやるほど、師匠の言うことに従ってたつもりなのに、せっかく学んだものを今から捨てろと言われる。じゃあ、今までやったことは何なんだ?っていう話の怒りで、それがパトスに繋がって、でもやっぱり元にも戻れない状態になってから怒りを感じさせるのが、適切な師匠のあり方だとするとですよ? そうすると、師匠が嫌われるかもしれないけど、弟子が伸びるわけで、だから師匠を最後殺して乗り越えるみたいな話じゃないですかね?

西平 本当にそうですね (笑)。

師匠と弟子

RES 私はお茶をしているのですが、茶の世界で、お茶を出す順番があると思うんですけど、茶室の中で、5人ぐらい並ばれたときに、誰からお茶を出すかがすごく意味を持つわけです。一番前に座る方が、基本的に最初に出す人、一番偉い人になるのですが、茶会を開催したときに、お茶の先生から「今日のお茶会はあなたが主催したものなのだから、先生が一番偉いとか考えなくていい。あなたにとっての一番の関係者ではないでしょ」と怒られたことがあります。お茶をたてる自分がその茶会の論理を作り、それをまず示すことが大事なのであって、それもおもてなしの一つの考え方と言われたとき、そういうのもあるんだと思いました。尊敬の順番ではないですが、また別の何かおもてなし道みたいなのが彼らの中にあるんだなと思ったとき、今まで習ってきたお茶の作法というか、日本的な考え方とかなり矛盾する感じがした経験があります。

「守破離」とか、この場があって成り立つものをどういうふうに学びの機会に意義付ける、位置付ける、これが難しい。だからとにかく黙って、師匠についてお茶をやれというのが一番簡単なんですけど、そもそもが、今の師匠の言ってる意味はこうだよねって私たちが多分ここで言っても、それこそ場を共有して、わかってないということになってしまう。

西平 世阿弥は『風姿花伝』を書いたわけじゃないですか。稽古の知恵というか、演技の知恵を文章にして伝えようとした。しかしそれは考えるとおかしいことです。弟子たちは、実は稽古の場を共有していた、舞台を共有していたから、もう実際に見てるわけです。見ているものを、わざわざ文字にして、伝える必要があったのか。豊かなものを貧しくしているようにも感じます。なぜそんなことをしたのか? いろいろ考え方はあると思うのですが、その一つに、世阿弥は、「お前たちわかった気になるな」という思いで書いたのではないか。「これを読んでできるようになれ」ではなくて、「できるようになったつもりだろうけど、お前らわかってないだろう」と突き付けるために、あえて一面だけを見つけるような書き方をしたんじゃないか。

また、世阿弥にはお父さんの観阿弥がいましたが、観阿弥という人は、文字を書かなかったし、読めなかった。だけど、世阿弥は親父に勝てないという。敵わないと。だけど、書くことによって初めて、親父を超えたような気持ちになれたのではないか。だから、彼にとって書くことは、父親との壁を自分なりに超えることでもあったのかなとも思います。

自分がやったことを子どもたちに伝えたい、弟子に残したい。それが世阿弥の試みではないかと、私もそう思っていたわけですが、考えていくと、おかしい、それだけじゃない気がする。そこから始まって、最近はいろいろ感じるようになりました。

だから、さっきから出ている「言葉に対する不信」みたいなものは、世阿弥にもあったし、私の中にもあるし。それなのに、世阿弥は書いたものをまた自分でこねくり回すわけだから、何をやっているのかと、いつも不思議になります。

「離」の二重性

RES 今までは教わる立場の視点でしたが、教える側での視点だとまた話変わってくるのでしょうか?

西平 「守破離」は、教える側にとっても「守破離」なんだと思います。例えば、「守」というのは、基本的には、正解と正解でないを区別します。正解は師匠が持っている。師匠の側としては、俺に従えと言わざるを得ない。あるところまでは。そのとき「俺に従っては駄目だ」と早くから伝えることで、いい結果をもたらす場合と、混乱させてしまう場合がある。どの段階で突き放すかです。他の師匠のところへ一回行かせてみるとしても、ある程度まで、一つの型を身に着けてからでないと、他のところへ行かせない。だから「守破離」の思想は、教える側、教わる側のどっちにも通ずると思います。

そうやって見ていくと、「守破離」の理想は、本当は「守」を大切にしろという話のように思います。「守破離」と聞くと、「破」はドラマチックだし、「離」は神秘的だし、魅力的ですが、「守」は一番当たり前の話に聞こえてしまう。だけどこの「守」をこそ大切にしなければいけない。そのための知恵ではないかと思います。

RES 例えば、初めて弟子に指導する経験をして、自分なりの弟子の指導の型みたいなのができても、弟子の指導の仕方の型を破らなきゃいけない、指導における「破」っていうのも理論的にはありますか?

西平 稽古というと、師匠の型を受け継いで、それを次に伝えてくイメージですけども、「守破離」の話が入ると、そんな簡単なものではない。受け継ぐときに既に一回、破ってる。破りながら、受け継ぐイメージかもしれません。

RES 「守破離」というのを生徒の立場で見たとき、稽古を通じて型を伝えていく。これは「守」ですよね。「守」の部分については、結果としてそれを受け継いだ方がまた破って離するんだから、それはそれで、「守」が大事。結局師匠としては、「守」をちゃんとやっていればいいということかもしれないなと思うんですけど、そこは、「破」とか「離」についての何か師匠ならではのものの見方というか、その相手が伸びていくことを見越した、相手に合った促し方というのが何かあるのでしょうか? 啐啄の機能、要するにタイミングを見てつつくやり方のノウハウは何かあるのでしょうか?

西平 この「離」は、おそらく何らかの二重性を持っています。タイミングを見計らうのは、二重性があって、初めて成り立つ。早過ぎもせず遅すぎもせず、全体の状況を見ることと、私からしか見えないこの“1回きり”があると思います。そうした二重性を自由に行き来する。カメラのレンズの焦点を、調整しながら、合わせてゆくみたいなイメージです。

RES なるほど。いきなりズームにもなるし、いきなり広角にもなるし、ということですね。

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