教育サービス開発評価機構(RES)が送る勉強会の第3回のテーマは「身体知」。4月21日に開催されるオンラインセミナー「不確定時代の身体と学び ~身体知が学びの新たな地平をひらく~」に先駆けて、登壇者の一人、西平直さん(京都大学名誉教授)に著書『稽古の思想』や世阿弥、守破離などをテーマに「身体知」についてお話を伺いました。(全3回の1回)
明治以降の教育=学校への疑問
RES まず『稽古の思想』で着眼させていただいたのは、我々RESが「身体知」を掲げて勉強会を開催するにあたり、「身体知」という言葉自体は非常に広い意味を持ち、当然のことながら、いわゆる武道とか芸道における身体感覚の伝承の仕方みたいなものが、現代における教育学習論の一要素としてすごく重要度が高いんじゃないかと思っているからです。そういう中で、最近の先生のご著書を拝読すると、グリーフケア、養生にも着眼されていて、先生が今ここに至るまで『稽古の思想』を含めて、どのような研究、お考えをお進めになってるか。その位置づけみたいなところからちょっとお話を伺いたいと思います。
西平 元々、私は哲学を専攻していました。ハイデガーだったんです。文献研究のようなことをしていて、ただ、このままハイデガーと心中するのは嫌だと(笑)。そのときに、教育学は守備範囲が広く、私にぴったりだと感じたわけですね。哲学といっても、人間の生き方みたいなことを知りたかったわけです。だから「ライフサイクル論」という形にして、研究を始めました。
RES 先生の研究の中で教育に対してはどういうお考えをお持ちなのでしょうか?
西平 一番のポイントは、明治以降、教育という言葉は学校と結び付いたことです。だから教育と聞くと、学校がやるものだと思われてしまう。
RES 制度化されたわけですよね。
西平 もっとややこしいのは、制度化されない営みも学校の周辺領域というふうに理解されてしまうことです。そのつながりを切り離したいと思ってるんです。教育を、学校から引き離す。ただ、いろいろ話すと少し無理が出てきて、別の言葉を使った方がいいかなと思い始めたんですね。
RES なるほど。それで「稽古」という言葉になったわけですね?
西平 一つはそうです。しかし、明治以前は一つの言葉ではないんですよ。ある領域は「稽古」、ある領域は「養生」、あるところは「手習い」「修行」。それでそうした領域を調べることになったんです。よく聞かれるんですけども、空手をやってたのかとか、そういう稽古の体験があって関心を持ったのかって。そうじゃないんです。むしろ学校から離れた、人が育つ機会に関心があったということです。
明治以前の教育のあり方
RES その中で、国として人材を養成しなければならないとなったとき、言ってみれば社会の要請に応じた教育のあり方は一つ多分ある。それから個人のアイデンティティを重視したときに、選択肢をいろいろ提供していくべきじゃないかという考え方もある。あるいは、教育学習というのが、いろいろな手法があって、手法というものをもっといろいろぶつけていくのが望ましいんだっていうような、そうして初めて人間のポテンシャルというものは開花するんだというような考え方があったり。何を規範として、教育論を語っていくか自体に問題があろうかと思うんですが、明治以前の稽古から手習いに至るまでの、日本の社会における求められていた教育の規範は、基本的にはどういうことからくるのでしょうか?
西平 今おっしゃってくださった「上から」と「下から」とで考える。どちらもあり、しかもその両方が絡み合っているように思います。個人を中心にした「子どもの幸せのための教育」が強い場合もある。しかしそれが一貫してるかと言うと、案外そうでもなくて。すり寄ってみたり、演出してみたり。日本では元々という議論は成り立たないと思ってます。もしそれを言うならば「ホモサピエンス種は--」という話にした方がいいのではないかと。
RES なるほど。そうすると、生き物としてのヒトが、なぜ学習教育というものを手がけていかなければいけないのか。多分、進化における生存確率を上げるような合理的なメカニズムというか、理由が背後にあったりするんだと思うのですが、それ以外に、やはり文化的な要請がもう一つある。例えば、江戸時代においては、社会秩序として江戸幕府を中心にして儒教的なものがまずベースにあってとか、あるいは藩ごとの育成を加味してということは、やはり上から下からということでいうと割と上からが多い。
一方、現場というか、庶民のレベルで言うと、実学的なものというのが発達している気がします。日本固有というとちょっと言い過ぎですが、やっぱり少なくとも西洋科学的ではない。これについては、文化と呼ぶのか、ホモサピエンスと呼ぶのかっていうことで言うと、どういうふうにお考えですか?
西平 その全体をまとめて考えることはできなくて、『稽古の思想』の文脈でいくとこうなる、『養生の思想』の文脈でいくとこうなる、というような形で、現在進めています。相互の関係は、昔の人も考えなかったはずはないんだけども、あまり出てこないんです。稽古の師匠達が、養生の本を読まなかったはずはないと思いますが、でも、語るときは稽古の話として語って、横の繋がりがない。稽古の人と養生の人と修養の人がシンポジウムをしなかったわけですよ。
統合ではない
RES 今で言うと、万能型、ジェネラリストといった人を育てる教育が、明治以降今までなされてきたわけですよね。ですが、国の成長がある程度進んだときに、これ以上は難しいと今はなっていて、今は専門性の高い教育をした方がいいんじゃないかと言われ始め、教育が見直されてる時期に差しかかってる気がします。この辺り、少なくとも稽古とか手習いは江戸的な話だとするとですけど、市民平等の前の世界だから、士農工商の階層ごと、あるいはその中でもさらに職の入口ごとに、教育のあり方、学習のあり方は伝承されていて、そういう流れというものが、明治のときにぶち壊された。そういう理解でよろしいですか?
西平 大雑把に言えばそうなると思いますね。
RES ということは、現代的な視点からこれを捉え直すと、先生の掲げておられる四つの『稽古』『養生』『修行』『手習い』。それぞれの領域ごとに合ったものを、今こそむしろ共通要素を抽出し直して、「身体知」的な観点で当て直すっていうのはすごく面白いのかもしれない。
西平 実は、統合というのは好きではないんです。「統合」というと、結局塗り潰してしまう。統合よりも、むしろ、個々のものを地道に追いかけていこうと思っています。