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イベントレポート

受験を「哲学」で問い直す——「自由の相互承認」から見た教育の本質【イベントレポート】

公教育はなぜ存在するのか。そして、現代の受験制度は本当に人を幸せにしているのか。対立や目先の技術論に終始しがちな教育論議に対し、民主主義の根本原理から現行の受験制度を再設計しようとする哲学者・教育学者の苫野一徳さん。「自由の相互承認」という哲学の視点から教育の本質を紐解き、一本の評価軸で社会全体を序列化する受験の在り方に一石を投じた。
本稿では、「RESカンファレンス2026」における苫野さんの基調講演をレポートします。

「そもそも」の本質から問題を根本的に解決する

「教育は何のためにあるのでしょうか」。

この問いを正面から論じる機会は、日常においては意外なほど多くありません。教育をめぐる議論の多くは、授業内容や校則、あるいは受験の技術論といった目の前のテーマに終始しがちです。これに対し、苫野さんは教育において哲学が果たす役割を鋭く提示しました。

苫野さんによると、哲学とは、そもそもの本質を考えることであり、それによって問題を根本から解くことができるものです。自由とは何か、あるいは良い社会とは何かという根本的な問いに答えを求めなければ、私たちが目指すべき教育の方向性すら見失ってしまいます。

現在の教育議論が「教育観が違う、子ども観が違う、授業観、学校観、受験観が違う。そしたらもう対立しかない」といった状況に陥り、対立ばかりを生み出してしまうのは、教育のそもそもの目的を共有できていないことが最大の原因であると、苫野さんは指摘します。

人類の歴史が証明する民主主義の力

議論の本論に入るにあたり、苫野さんがまず言及したのは、人類における戦争と暴力の歴史。苫野さんは、「この2、300年ぐらいで戦争が大激減したということを皆さんご存知でしょうか。ものすごい右肩下がりで戦争が激減しているんですね」と、現代の感覚からすると一見信じがたい事実を提示しました。

日々ニュースで報じられる戦乱や紛争を見ていると、世界は混沌としているように思えます。しかし、歴史的な大局から見れば、人類は暴力によって命を落とす人の数を劇的に減少させてきました。

この劇的な転換をもたらした最大の要因こそが、民主主義という概念の発明と普及だと苫野さんは言います。わずか数百年前までの社会では、人種や宗教、あるいは身分の違いを理由に、他者を奴隷にしたり殺害したりすることを当然と捉える人々が多数を占めていました。

しかし、人類は歴史を重ねる中で、「みんな同じ人間だよということを認め合って、それを前提に社会を作っていきましょう」という共通認識を育み、社会の在り方を根本から変革してきました。

苫野さんは、「こんなのおかしいという感受性を我々が持っているということ自体がすごいこと。なんでそういうことを思えるようになったのかというと、一番大きな理由は、哲学者たちが近代民主主義というのを発明したからです」と述べ、思想が人類の倫理的な感受性をいかに進化させてきたのかを強調しました。

民主主義を支える「自由の相互承認」と「一般意志」

続いて苫野さんは、民主主義を成立させる二つの根本原理を示しました。

一つ目は、哲学者ヘーゲルの思想に由来する「自由の相互承認」です。これは、お互いを対等で自由な存在として認め合い、その考え方を社会のルールとして組み込むことを指します。苫野さんは、これこそが民主主義の基盤となる原理であると説明しました。

二つ目の原理として示されたのが、ルソーの提唱した「一般意志」です。一般意志とは、「みんなの意志を持ち寄って見いだし合った、みんなの利益になる合意」を意味します。法律や制度、そして国家権力の正当性は、すべてこの一般意志の存在に依拠しています。

一部の富裕層や大企業といった「特殊意志」が社会を支配することへの批判や、それを是正しようとする動きも、一般意志という概念があるからこそ生まれるものです。

ここで重要なのは、多数決は決して民主主義の本質ではないという指摘です。ルソーの議論を引く形で、苫野さんは「多数決は民主主義の本質でないということも自ずと導かれる」とした上で、「多数決を用いていい場合はたった一つだけ。それは事前に、『このような場合・状況では多数決で決める』ということを全員が合意している場合のみ」であると語りました。

つまり、民主主義の本質は、多数派の意見を一方的に通すことではありません。常に全員の利益につながる合意を模索し続けるプロセスそのものにあるのです。

講演する苫野さん

公教育が担うべき「三本の柱」

民主主義社会を安定的に持続させるために、歴代の哲学者たちが構想した制度的な土台には、三つの柱があります。それは、「憲法」、「公教育」、「福祉行政」です。

第一の柱である憲法は、すべての人の自由を法的に保障する役割を担っています。しかし、法的な保障だけで、人間が十分に生きられるわけではありません。人間が自ら望むように自由に生きるためには、それにふさわしい力が必要です。

また、どれほど法が自由の相互承認を理念として掲げていても、市民一人ひとりの内面にその感度が育っていなければ、制度は形骸化してしまいます。だからこそ、第二の柱である公教育が必要となります。

苫野さんは、「学校教育を通して、自由の相互承認の感度と、自由に生きる力を育む。このために公教育が存在している」と語り、公教育の存在意義を明確に定義しました。

なお、第三の柱である福祉行政は、貧困や障害などによって、教育や法による支援だけでは十分に支えきれない人々を支援する、最後のセーフティーネットとしての機能を担っています。

現行の受験制度がもたらす「序列化」の弊害

こうした一貫した哲学的な土台を踏まえた上で、苫野さんは現代日本の受験制度に本質的な問いを投げかけました。

現在の入試で求められている学力や能力は、果たして自由に生きるための力といえるのでしょうか。

苫野さんは、「認知科学の知見によれば、試験のために覚えたことの90%はすぐ忘れられてしまうと言われますが、それでは自由に生きるための力が育まれているとはなかなか言えない」と述べ、現代の受験が本来の教育目的から乖離しているかもしれない現状に疑問を呈しました。

さらに深刻な問題として、社会学者エマニュエル・トッドが「ミルフィーユのような序列化」と表現した現象を挙げました。

かつての「大卒か高卒か」という単純な二分法による格差を超え、現代社会では、出身大学の偏差値などによって細分化された階層が形成されています。そして、それぞれの階層間におけるコミュニケーションや相互理解が、著しく失われつつあります。これは、民主主義にとって深刻な分断です。

苫野さんは、「社会がミルフィーユになると、自由の相互承認の感度が毀損されることになる。だからこれを再設計していかなければいけない」と、強い危機感を示しました。

「序列化を伴わない多様化」への再設計

それでは、これからの受験制度はどのようにあるべきなのでしょうか。

苫野さんがこれまで15~16年にわたって一貫して提唱し続けている解決策が、「序列化を伴わない多様化」です。

本来、人間が自由に生きるために必要な能力は、一人ひとりが志す道によってまったく異なるはずです。

苫野さんは、「自由に生きるための力は人によって違います。サッカー選手になりたいとか、画家になりたいとか。あるいは、体育大学に行きたい人、芸術大学に行きたい人、医学部に行きたい人と教育学部に行きたい人は、同じ序列化の軸でそもそも測れない」と指摘します。多様な夢や適性を持つ若者たちを、単一の物差しで評価すること自体に無理があるという議論です。

これは、東京大学や京都大学をはじめとする、いわゆる高い学力を求める大学の存在を否定するものではありません。学力を重視する評価軸があってもよい一方で、その一つの軸だけで社会全体を縦一列に序列化するべきではないという考え方です。

そして、多様な評価軸が横並びで存在し、それぞれをそもそも単純には比較できないものとして扱う受験の在り方へと転換すべきだという提言です。

苫野さんは、「今後も、いわゆる学力が求められることは必要だと思いますが、そういった一本の軸ではなく、いっぱい軸があって、これらはそもそも序列化ができないものだという認識のもとで、受験というものを再設計していくことができるんじゃないでしょうか」と、未来への展望を語りました。

現在の受験や教育をめぐる議論の多くは、個人の好き嫌いといった主観的な価値観の次元で対立しがちです。しかし、受験や教育の在り方を、「自由の相互承認」や「一般意志」といった社会制度の根本原理から問い直すことによって、初めて対立を乗り越えた建設的な議論が生まれます。

教育の世界に「そもそも論」を呼び込み、制度の根本的な再設計を促す苫野さんの試みは、今後の教育改革における重要な指針となるのではないでしょうか。


RESmedia編集部

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