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インタビュー

第3回 身体観の哲学 方条遼雨さん(天根流代表、身体思想家)(最終回)

『身体は考える』(甲野善紀・方条遼雨、PHP)の著者の一人、方条遼雨さんにインタビューし、3回にわたって教育や学習における身体性と創造性の重要性を探ります。最終回の今回、方条氏は身体を通して得る「知性」について語り、非言語、非論理領域こそ主であると語る。つまり「身体は考える」のだ。(全3回の最終回)

非言語領域の重要性をどう伝えるか

RES 幼児のときは「掌握領域」を育むために体験させ、想像させる。でもこれが大人になったときに論理的思考が入ってくるけれど、それをまた戻してみる、非言語のところも大事だよって伝えていくためには、どのような方法があるとお考えですか?

方条 例えば、私の武術のワークショップでは、どんどん意味がわからない技を受けてもらいます。あとは自分で論理的に説明できないけれど、心に引っかかる芸術に触れる。人によっては絵かもしれないし、テクノミュージックかもしれない、能とか狂言などの古典の芸能かもしれない。とにかく自分にとって、保守的で安心感のあるものだけでなく、その外側にあるざわざわするものを感覚で“食べる”体験をする。自分で体を動かしたり、物に触れたり、ワークショップで陶芸をやるとかもいいですね。大人になってからこそやった方がいい。それが知性を育むんです。若いうちに始めるほどいいけれど、いくつからでも始められます。

RES その点で質問なんですが、そういった芸術に触れて感覚的なものを掴むには、やっぱり心体が緩やかなフロー状態になっている方が望ましいですか?

方条 逆に、緩やかなフロー状態は身体を知った上でなっていく領域ですので、まずは自分の体と対話するのがスタートです。自分の体に意識を向け、今自分の身に何が起きているのかを感じながらいろんなことをやってみる。

例えば今座っていますが、どっちのお尻に体重が乗ってるかを感じたり、物を持ったりするときにどこにどういう重さがかかっているか、歩いているときにどういう振動が両足に響いているか、腰にまで来ているかとか。あらゆる行為において、自分の体で何が起きているかを観察する。そうすると自分の身体への理解が深まり、対話が進むと、その土台の上にいろんなものが乗ってくる。

自分の中で観察の精度を上げ無駄を知り、その無駄をやめるという中でも相当育めます。その助けとして、例えば私のワークショップでその発展を促進する、感覚を促進するみたいなことをやってますけれど、日常でもできることはたくさんあります。

RES 何かを失敗して落ち込まない練習をするとか?

方条 そうですね。自分の欠点を把握しないと成長が進まないけれど、いちいち落ち込んでいたら立ち止まってしまう。落ち込まずに反省することが、人が一番成長する心理構造だと思います。まずそれを実現したいと思うならば、それに向けた取り組みが必要です。まずは日常の中で、例えば洗濯物をたたむでも何でもいいんだけれど、その中でちょっとミスをしてしまったときに、「ミスをしてしまったという揺らぎ」をなくすところから始めるといいです。

まずは理屈抜きで“食べる”

RES 学びは、差分といいますか、不味いと感じたところの差異によって加速する。何でそう感じるんだろうから、学びが進んでいくと考えることもできる。そう思っていたのですが、身体を通して学ぶのはそうではなくて、一旦先入観とかを全て手放した状態から学ぶべきということでしょうか?

方条 差分からも学べますが、ちょっと遠回りになると思います。例えばゴッホの絵を鑑賞するときに、わざわざ1回ピカソと比べると遠回りになりますよね。本当にゴッホの絵の持つ素晴らしさを吸収するにはピカソを経由せず、ゴッホを直接取り込んだ方が手っ取り早い。新しい軸を作り直そうとしているときに、既存の軸に寄ってから新しい軸を作ろうとすると二手間かかる。心を一回まっさらにして取り込むんです。

確かに照らし合わせる方が手っ取り早いこともある。状況においてはね。でもそれはどちらかと言うと、対応力とか対応時間を短縮する上では役立つけれど、根本的な自分の能力を拡張するには適していません。

RES 枠組みの話と重なりますね。新しく聞いた概念にも関わらず、既存の言葉で理解しようとしてしまうということとイコールで、その外にあるものをそのまま理解すれば、結果として枠組みが変わってくるということを仰っているように理解しました。

方条 そうですね。二つの手っ取り早さがあって、手っ取り早く状況処理したい場合は照らし合わせれば状況処理速度は速くなるけれど、自分の根本的能力を手っ取り早く拡張したい場合には照らし合わせない方が根本的能力は育まれます。

先生と生徒の素敵な関係

RES 今までの話とはまた別の視点での質問になるのですが、甲野先生を疑ったことがあるかどうかについてもお聞きしたいです。

方条 山のようにありますね。この稽古での対応が違うんじゃないかとか、この解釈は違うんじゃないかとか。師が絶対という形になってしまうと、思考が停止してしまうんです。だから、私と甲野先生の共著も、考えの違いがある前提で成り立っています。甲野先生は、我田引水でいいと言ってくれたので、自分の学びを自分なりに解釈し、発展させてきました。

RES 共著を出そうという話が出たときにはどう感じましたか?

方条 最初は、甲野先生の技を系統立ててまとめてくださいと言われましたが、筆が進まなかった。甲野先生が「好きなように書いていいよ」と言ってくれたら筆が進みました。だから、共著もそのようなスタンスで書かせてもらったので、楽でありがたかったです。

RES そんな甲野先生との関係ですが、師と弟子、あるいは先生と生徒の理想的な関係性はどのようなものだと考えますか?

方条 押し付けがましくないことですね。先生側が「これが正しいから正しいんだ」というスタンスで物事を伝えようとしないことです。

RES 生徒側としては、まず自分のバックグラウンドにあるものをとっぱらって、聞くというのが大事ですか?

方条 その上で批判精神を持つことです。鵜呑みにしないこと。自分が吸収したものを正しいという前提と、間違っているという前提で両方の視点から思考を構築することです。私は小学生や高校生に講習会をやるとき、大人の言うことを信じないでくださいと言います。私の言うことも鵜呑みにしないでくださいと。正しいという前提と、違うんじゃないかという前提の両方で考えることを実際に伝えています。

RES 身体的な感覚で受け止めることも関係していますか?

方条 そうですね。全ての行為において、例えば動物が生存する上で未知の領域に足を踏み入れるときに、危険な敵がいるかもしれないし、いないかもしれないので、両方の可能性を把握しておくのは生存行動の大前提です。それは教育や身体の場でも共通した必須の思考回路です。まずは意図的に両面から考えることをやった方がいいです。

考えない練習と考える練習も同時並行でやる。どっちかだけだとバランスが悪いんです。余分な照らし合わせやフィルターを介さないで吸収する練習と、ちゃんと批判的な視点を持つことを考える練習の方でやる。これは人間の文化文明の中で生きる上で両方必要です。

RES 言い換えると、論理が遠回りで、まずやってみるというところと、論理で学ぶ武術とか型で学ぶという両方が必要ということですか?

方条 非論理領域が主です。論理は従属するもの。非論理の部分から全てが生じています。まずは理屈抜きで“食べる”。理屈は後から出てくる。みたいな感じですね。

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