『身体は考える』(甲野善紀・方条遼雨、PHP)の著者の一人、方条遼雨氏(天根流代表、身体思想家)にインタビューし、3回にわたって教育や学習における身体性と創造性の重要性を探りました。今回は、著書をベースに方条氏の「身体観」について聞きました。(全3回の①)
身体があって人は認識や存在を始める
RES まず、方条先生が考える「身体観」とは何かというところから始めたいのですが。
方条 知的な作業、頭で物を考えることも含めて、すべての行為のベースは身体です。結局、頭で考えることも身体の一部ですから、身体観がなくては始まらないんです。身体は全ての土台ですね。そもそも身体があって人は認識や存在を始めるわけです。そこから派生して、テキストや学問の概念が生まれるのです。順序を間違えると、いろんなものが狂ってしまう。だから全てのスタートは身体だと思っています。
RES なるほど。先生の著書に「掌握領域」という言葉が出てきますが、これはどのように理解すればよいのでしょうか?
方条 本質的な知性とは、広い視野で物事を捉える能力だと思います。現代の知性は、限定的な範囲内で優秀さを発揮するものが多いですが、広い視点で見たときにその行為が持つ影響力を考えられるかどうかが重要です。例えば、短期的な利益を追求するために環境を破壊することは、広い視野で見たときに国家の衰退を招くことがあります。時間と空間の認識領域をどこまで広げられるか、これを「掌握領域」と呼んでいます。
RES それは人それぞれ違うという認識ですね。
方条 そうです。全く違いますね。
RES それに関連して、著書に出てくる「枠組み」についても教えていただけますか?
方条 多くの優秀な知性は、一定の範囲のゲーム内での優秀さに過ぎません。科学も含めて、現象は全て連続していますが、枠組みを設けた中で理解されていることが多いです。しかし、本質的な知性は、その枠組みを超えて広い視野で物事を捉える能力です。AIのビッグデータもその一例ですが、人間の感覚はそれを超えてずっと広い範囲を捉えてきたのです。枠組みから外れることで、革新的な変化をもたらすことができます。
RES それはいわゆる秩序に近いものでしょうか?
方条 秩序も自分たちが生み出したものと、自然に存在する秩序があります。多くの場合、人が生み出した秩序は、歴史的な権力や平均的な思考に基づいていますが、本来の自然の理(ことわり)に基づく秩序とは異なる場合があります。
作られた秩序と元々理の中で存在している秩序があると思います。例えば、相対性理論はアインシュタインが発見しましたが、アインシュタインが発見する前から相対性理論の秩序のもとに、世界は動いていた。そう言えばわかりやすいでしょうか。
RES ここまでのお話でいくと、先生が著書で仰っている「神の領域に近づく」というのは、いわゆる人が決めた枠組みや秩序みたいなものをはみ出していくことと考えることもできます。
方条 「私が考える」という但し書き付きで言えば、そうですね。多くの場合は、例えば特定の集団、特定の国家、特定の信仰などの人々が作った領域の中で出たものを神と呼んでいる場合が多いとは思います。私はそれも全部取っ払ったものに、そう呼ばれるものが存在していると考え、多くのものはその派生系じゃないかと考えています。
過敏をコントロールしながら敏感を保つ
RES 著書に「三短思考」にならないために書かれた部分があります。これは、見方によっては、三短思考にならないためには鈍感になればいいと考えられなくもない。もちろんそうではないと思いますが、これについても教えてください。
方条 鈍感とは違います。まず私は、敏感と過敏を区別しています。敏感とは、物事をきめ細かく的確に捉えること、過敏とは自分の取った情報で揺らいでしまうことです。私は身体や武術の教室を通じて、過敏の要素を取り除いて敏感の要素を残すことを教えています。過敏さをコントロールすることで、敏感さを維持しつつも三短思考、つまり「短気」「短期」「短絡的」のことを言いますが、これに陥らないようにするのです。
RES つまり、鈍感になるのではなく、過敏さをコントロールしながら敏感さを保つことが大切だということですね。
方条 そうです。ただ、私のカウンセリングに来る人の中には、本来敏感な感性を持っているんだけれど、敏感すぎてダメージを受けすぎる人たちがいます。それでは生きていけないから敢えて自分を人より鈍感にして、生き抜こうとしてる。こういう人は意外と多いです。それは生き抜くための一つの手段なんだけれど、水面下でダメージを負ってしまうんですよね。
根本から解決したければ、敏感さは捨てずに、過敏さをコントロールできるように訓練をする。自分の能力を閉じずに、だけれど必要なときに必要な情報だけを取れるフィルターをかけられる能力を身につける必要があります。
身体の拡張と芸術
RES 次に身体の拡張についてお聞きしたいです。人は身体を道具として使うことから始まり、道具として使う対象を様々に拡大することで、知識や技術を得てきた。それが身体の拡張だと我々は捉えていました。一方で著作を拝読すると、身体は果たして道具なのか?と疑問を持ったのも事実です。先生は身体の拡張について、どのように考えられていますか?
方条 身体の拡張は、まず行動して体験することから始まります。体験を通じて「身体を拡張」していくことが最も効率的です。身体の根本的な動作原理に関わる部分で行うと、より拡張は進むと思います。
RES 要は論理の呪縛から逃れる最善の手段に近いというイメージですか?
方条 そうですね。敢えて抽象的な言い方をすると、「特に自分が納得してないし、なんでかわかんないけれどもいい結果が出る」みたいなものを引き出すことですね。
RES そこに下手に理屈を持ち出すと駄目になってしまうわけですね。
方条 理屈から入ったら呪縛が生まれます。理屈が間に合わないことを先に体験した方がいいんです。新たな理屈は、後発的に生まれてきますから。今は芸術の世界ですら呪縛に陥っていることが多いです。芸術は一番そこから離れなければいけないのに、芸術がセオリー化して教科書になったら終わりなんです。創造性の世界だから。
RES 工業製品を作るってことですよね、要するに。
方条 そうそう。工業製品から一番かけ離れているのが芸術で、それを一般化して、量産化して、工業製品になるという順序ですから。スタートが工業製品ということは、それはもう芸術じゃないんですよね。