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インタビュー

【インタビュー】第1回 「身体知」を「守破離」の見地から語る 西平直氏(京都大学名誉教授)②

教育サービス開発評価機構(RES)が送る勉強会の第3回のテーマは「身体知」。4月21日に開催されるオンラインセミナー「不確定時代の身体と学び ~身体知が学びの新たな地平をひらく~」に先駆けて、登壇者の一人、西平直氏(京都大学名誉教授)に、著書『稽古の思想』や世阿弥、守破離などテーマに「身体知」についてお話を伺った。(全3回の2回)

「守破離」と「不二」

RES 今申し上げた話のイメージは、理論的に、全部同じ理論で語りましょうっていう意味での統合も含まれてるんですが、例えば今回、西平先生と大庭先生にご対談いただきたいと思ってるのは、私たちが「身体知」を議論してる中で、まず大庭先生が『「型」の再考』を書かれていたのを見つけたんですね。そして、型も稽古と密接に結びつくものであり、『稽古の思想』というタイトルで著書を書かれていたのが西平先生だった。大庭先生とお話したときに、テーマとしては「不二」、二つのものならずっていう二項対立を二項動態的に捉えるような発想に、そういう世界に、どんどん移って。だから対談をしていただくと、面白い話が広がっていくんじゃないかなと考えたんです。

西平 「不二」の思想ですね。統合、一緒になるという側面と、二は二であり続けるという側面。個々のものは残りつつ、協調し、ともにとどまり続ける。葛藤すると言ってみたり、往復すると言ってみたり、補い合うと言ってみたり。全て一緒になってしまったらできないですよね。だからこの「違い」を大切にする。違いにどこまで粘れるか。おそらくコーディネートとおっしゃるときには、繋ぐという側面もあるけど、それぞれの違いを際立たせるというのもあるわけですよね。

言葉はその一面しか照らすことできない

西平 「守破離」という言葉があります。今の「不二」も、「守破離」の「離」の問題とかなり重なると思うんです。

RES 先生の「守破離」をテーマにした著書を拝読して、なるほどと思ったことがあって、アンラーンという言葉はちょっとメッシュが荒すぎる。「守破離」の話には、守でパターンが決まってくると。これがある種一段レベルが上がると同時に固まっちゃうから、「破」のところに行く。そういう意味では、アンラーンという言葉があるのですが、「離見の見」の話は、そこからさらに次の話なんですよね。ほぼ、存在論的な話じゃないかと思うんですけど。アンラーンは多分、存在論までいかないような気もしていて、この辺りをいろんな用語が今現在飛び交っているものに対して、もう一つ違った光を当てるような話ができたらいいなと考えています。アンラーンあるいは、リスキリングといった現代的な用語がありますが、それだけでは語り得ない部分がやっぱりあるんだと。というのが「不二」や「離見の見」だと思います。

西平 例えばその一つが、守破離の「離」は「型から離れてしまうことか?」という問題です。

RES ではないですよね?

西平 「離」は、型を使うこともできるし、使わないこともできる。自在ということです。何らかの二重性を孕んでいるわけです。そしてその二重性を、私は「統合」と言わないわけです。今おっしゃってくださった「離見の見」の話と重なると、本当に複雑なことになって。「離見の見」は謎ですね。いくら捕まえても必ず反論が来ちゃう。ゼミのテーマとしては最高ですが。

RES 今おっしゃってる反論は、「守破離」を研究されてる方からの反論という意味ですか?

西平 いえ、むしろ、例えばラグビーをやっていた人が、自分の体験に即して語ってくれると、わかっていたことがわかんなくなってくるんですよ。「身体知」で掴んでいることは、言葉ではその一面しか照らすことできないので、その体験そのものを語ろうとすると、言葉では足りなくなる。

RES 例えば日本の言葉は、全体を緩やかに掬いとろうとする。確かにその通りなんだけど、その言葉はある場が共有されてる中でだったらば、この柔らかなまま伝達が可能です。文字になって、しかも時代が違い、状況が共有されない中で使うと、様々な柔らかさではなくて、こっちから光を当てたときの内容は、多面体になっちゃうというのでしょうか? 一つしか表現できないから、こっち側から言われると参りましたとなるのでしょうか?

西平 本当にそうですね。逆に「稽古」という言葉を英語にしようと思うと困るんですよ。

RES 稽古はそのまま稽古と翻訳して、それを英語でダラダラと書いてもらわなきゃしょうがないですよね。トレーニングの面もあればモデリングもそうでしょうし。

「守破離」は、一度下に折れ曲がる

西平 おそらく(勉強会での)私の役は、「守破離」を一つのモデルとして提示することだと思います。そしてそこにどんな問題が生じてくるかを述べる。例えば、なぜ折れ曲がるのか。折れ曲がるというのは、「守」が型を上るとすれば、「破」は下っていく。「離」はそこからもう1回上ると言えばいいでしょうか。少なくとも、「破」と「離」は逆のベクトルに向かいます。だから「守破離」は、何度も折れ曲がります。

RES リニアじゃないってことですね?

西平 まさにそうです。リニアじゃないというのは、どういうことかと言うと、一方向に進めばそれでいいとは言わない。さっきまで言っていたことと話が違う、逆に行く。なぜ折れ曲がるのか? 本当に折れ曲がらなければいけないのか? 例えば、型に入って順調に進んでいる人が、なぜ「破」に、アンラーンに、行かなければいけないのか? 行くように指示されるのか? 自分の中でその必要を感じるのか? そのあたりの問題が出てきます。それが一つ。
今度は同じようにアンラーンを進んでゆくと、必ず「離」が出てくるのか? 「守破離」の「破」は危険なわけです。今まで持っていたものを捨ててしまうというか、離れてしまうわけだから。どこまでいっても戻ってこられなかったら怖いですよね? この怖いときに、師匠は止めるのか? それとも任せてしまうのか? 「守破離」は全部、師匠と弟子の関係のことです。「離」が生ずるときには、師匠は何らか関わるのか? 法則があるのか? 例えば、世阿弥は何も語りません。どういう条件が揃ったときに「破」から「離」に転ずるか、世阿弥は何も語らない。その上でこの「離」は、一体どういう二重性を孕んでいるのか。

RES そもそも「守」の後に「破」に行く必要性があるのかいうこともありますよね?

西平 本当にそうです。順調に進んでいる人が「破」に行く必要があるのか? 学生から聞かれます。でも、私は、行き詰まりと思っています。行き詰まったら、「破」に行かざるを得ないんじゃないか。

RES 「守」をやればやるほど、自分の中で自己矛盾が起きて、その「守」をやるべきかどうかということはあります。ありとあらゆる人に物を教えてもらってるうちに、どこかで自分が師匠の言うことを完全に消化できないがゆえに、「破」にいってしまうということもあるでしょうし。逆に言えば、師匠の教えを全部消化して、そこで壁に当たってという今、先生がおっしゃったようなこともあるでしょうし。難しいですよね、非常に。

西平 いろんな側面があると思います。

【最終回へ続く】

 

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