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インタビュー

第7回 諏訪正樹さん(後編)『身体が知っている—AIを超えるクリエイティブの本質』

身体知は決してアーティストやスポーツ選手だけに限られた特別な能力ではない。諏訪正樹さん(慶應義塾大学環境情報学部教授)は、日常の「散歩」や「料理」、「道草」といった、ありふれた行動の中にも身体知が存在していると指摘されます。重要なのは「とりあえずやってみる」という姿勢であり、そこから生まれる想定外の発見や違和感がクリエイティブの起点になる。後編は「新しい着眼点」を生み出すための実践的なヒントを交えて語っていただきました。

2025年3月30日開催のRES勉強会に諏訪正樹さんが登壇されます

「知覚像」は能動的につくられる――身体と感情が世界を解釈する仕組み

RES なるほど。インダクション=ルール発見は大きな飛躍があるけど、アブダクションは意外とそうでもないという印象があるわけですね。

諏訪 そう思います。ただ、人がルールそのものを獲得しているかどうかは容易には判別できないし、実際はもっと複雑でしょう。多分脳神経科学の話をしなくてはいけないです。柳の木がなぜ幽霊に見えるは、もう概念のレベルを超えていて、感情状態や体調が大きく関わってくるんですよ。その日不安だとか体調が悪いとか。

RES つまり幻覚とか幻聴みたいな?

諏訪 幻覚・幻聴というより、むしろ、頭の中では幽霊の知覚像をちゃんとつくりあげているのです。ひとは幽霊の心的イメージは普段のテレビや噂話を介して頭に蓄えていて、それが柳の木と結びつくんです。なぜその結びつきが促されるのか? 昔テレビで幽霊の像を見たときにたまたま生じていた周辺情報、感情、体調と偶然近いような周辺情報、感情、体調が、柳の木をみたときに存在すると—たとえば夜で、嫌なことがあって、寂しくてみたいな状況だと――それがフックになって「幽霊」を知覚する可能性が高まるわけです。これは“幻覚”ではなく、記憶からのトップダウンと現在の状況のボトムアップのせめぎ合いで生まれる、正常な認知作用です。

RES よくわかりました。「読む」という行為もまさに身体的ですよね。先ほどの幽霊のような概念やイメージは、物語や誰かの話を通じて脳に刷り込まれている。そうしたイメージが、今まさに柳を認識しようとした瞬間に紐づいて、自分なりの「解釈」として現れてくる。

諏訪 しかも紐づくかどうかは、当時感じた幽霊にまつわる周辺情報・感情・体調と、いま自分が置かれた周辺情報・感情・体調がどれだけ近いかに左右されるわけです。ポジティブな状況とか、めちゃめちゃ元気な状態とかだと、柳を見ても幽霊とは思わないでしょう。

RES だから読書みたいなものもおそらく読み方が、そのときに見た文字から連想されるものが感情的に紐づくっていうことで、漫画だろうが、映画だろうが乗れるときと乗れないときってあると。だから必ずしも幻覚ってところの話じゃないっていうところの確認が、幻覚って言葉の定義もありますけれど、やっぱりまた概念として見間違えるんじゃなくて、本当に繋がるというか。

諏訪 間違えるんじゃないですよ。知覚像っていうのは能動的に作るのです。

RES なるほど。知覚像は能動的に作るんですね。それは断言できちゃうんですか?

諏訪 はい、脳神経科学の知見から明白です。ダマシオという脳神経学者やその周辺の参考文献を引用しながら、僕は人工知能学会やその他あちらこちらで書いています。外部から入った視覚情報は 知覚像形成にむけてV1 → V2 → V3 → V4 へと脳内で段階的処理がされるときに、トップダウンの影響を受けながら大量の入力信号が“消えて”いくことが解明されています。初期のV1あたりから分岐があり、ひとつはV2へ、ひとつは中脳や脳幹に信号が行きます。中脳や脳幹は感情や情動を扱っているので、現在の感情や情動と似た過去の感情や情動にアクセスして、それに紐づけられた知覚像がトップダウンな制約としてV2 → V3 → V4の処理に大きな影響を与える。要はいまの感情や情動に応じて「見たいものだけ見る」というメカニズムがあるということです。柳が幽霊に見えたり、普通に柳に見えたりするのは、決して幻覚ではなく極めて正常な脳の働きです。

RES この「見たいものを見る」メカニズムを学習面で考えると、見たいものが変化していく過程こそ学習ループそのものですよね。どんどん広く、深く「見られる」ようになるのが理想だとして、じゃあそれをどう訓練や習慣づけで養えばいいのか……結局は「探索」なのでしょうか?

諏訪 結局は「いろんなことを経験しましょう、つまりトップダウンの種類を増やしましょう」という話になりますね。拙著の最後の方にも「道草のすすめ」ということを書きました。これは非常に好評で大学の入試問題などでも取り上げられたりしています。

子どものころ道草をすると、ある価値観からすれば「何してるの!」と叱られますが、実は子どもは世界を探索してるんですよ。道草禁止で「早く帰ってきなさい」という教育の度が過ぎると、世界探索、つまり学びの芽を摘んでしまう可能性がある。もちろん安全面の問題はあるでしょうがね。たとえば我々男子児童はよく棒や枝を拾って、ガードレールをカンカンやったりしました。あれ一つとっても、勉強との直接の関連はないかもしれないけど、枝ってこれくらいの硬さなのか、触るとこんな感じなのか、ガードレールの響き方って面白いなとか知覚したり考えたり、そのリズムや音が記憶に鮮明に残ったりしている。身の回りのあらゆるものごとが探索対象であり世界経験であり、それが源となってひととは異なる着眼につながるのかもしれない。

RES いわゆる「暗黙知」の話にも通じますね。運動や楽器などでも意識的な訓練段階を経て、そのうち無意識化していく。その行き来の中で、知覚世界が変わっていく。そこがどうやって起きるのか、興味深いです。もっと早い段階でそういう探索を体感できる人が増えるには、どうすればいいのか。

諏訪 理論的に言えば、私と東京科学大学の藤井晴行さん、札幌市立大学の学長である中島秀之さんの三人で、「構成のループ(FNSループ)」という考え方を示してきました。FNSはfuture noema synthesisの略です。PDCA に似ているけど、本質的に異なります。

現象学の用語ですが、「カレント・ノエマ(いま身の回りで起きている状況の認識)」をベースに、そこから「フューチャー・ノエマ(将来こうしたいという意図)」が生まれ、それに基づいてとりあえず何かやってみる(これは行動)。その行動をやってみると、そのとき偶然その場に生じていたものごとや要因と、想定外の結びつきを見出して、言葉にならないモヤモヤが生じたり、何かしらの問題点や仮説が浮かびあがったりする。それが次なる「カレント・ノエマ」で、次のサイクルに入ります。

行動の結果がその場の状況の何とどう関係するかは、やってみるまでは本人にもわからないというのが、FNSループの重要なポイントです。それが「想定外」ということ。しかし、とにかくやってみると想定外のカレント・ノエマが生まれる。その想定外の出会いこそが「着眼」です。

PDCA の “C“はCheck、つまり意図したことがちゃんとできてるかどうかのチェックなので、辞書が変わってないんです。しかしFNSループでは着眼によって辞書が変わるんですよ。だからこそクリエイティブなものごとの核が生まれる。想定外の出会いにもことばにならないものからことばになっているものまで多様なレベルがあって、新たに生じた違和感、疑問、仮説、問題点、問題意識のすべてが「出会い」です。これらを「問うこと」と呼ぶとすると、まさに「問う力」がFNSループを回すには求められます。

「とりあえずやってみる」→「周りのものごととの兼ね合いで、辞書(概念)が変わりつつ、想定外の着眼が起こる」→「近い将来やってみたいこと(意図)が生まれる」→「またやってみる」というループを回すことが、クリエイティブな思考につながるんです。失敗を恐れて「とりあえずやってみる」が苦手な人も最近は多いですが、そこが肝心なんです。

諏訪正樹さん

リスキリングと「問う力」――失敗を恐れない学習の場づくり

RES 一方で最近「リスキリング」が盛んに言われている理由には、ビジネスの世界で環境変化が激しくなり、今までのやり方では安穏としていられない、という状況があると思うんですよね。つまり、大人になってからでも変わる必要がある場面が増えた、ということを示唆しています。

諏訪 そうですね。私は食べるのが大好きで、料理もときどき作ります。なかでもパスタが好きで、大学の最寄り駅にあるパスタ屋さんとは親しくて、研究のつながりもあってインタビューもさせてもらったりしました。そこのオーナーがよく言うのは「男性客は決まったメニューしか頼まない。一方、女性客は冒険をする人が多い」とのこと。常連さんでも、男性は“これ”って決めてしまう人が多いそうです。

私は、とにかく新しいメニューを試すほうなんで、「諏訪さんは珍しいですね」って言われます。学生たちも、この店で美味しいとわかっているパスタしか食べないひとは結構いますよ。「おいおい、それでいいの?」と思うんですが、本人たちは「いや、新しいメニューを頼んで、もしハズレだったら嫌なんで…」と。

でも、たとえハズレだったとしても、それを経験として「何が合わなかったんだろう」、「事前にヒントはなかったのか」などと考えることが将来への投資だと私は思っているんです。

お店選びなんかもそうですね。食べログのようなサイトがなかった時代には、自分の目で店構えやメニューの書き方を見たり、雑誌に載っている写真とか文章を見たりして、そして選んで、失敗したときは「何がダメだったのか、何を見落としていたのか」を考えてみる。そうやっていると自ずと着眼の力が鍛えられていく。

RES なるほど。まさに目利き力ですね。

諏訪 そう、目利き力ですね。FNSループを回すという習慣は、目利き力や出会う力を磨いている一種のトレーニングでもあります。いまの資本主義社会では、あまりにも失敗を恐れる傾向が強いのかもしれません。でも、とりかえしのつかない失敗につながらない範囲でどんどん突っ込んでいったほうがいいと思います。大人になればなるほど、そういうマインドが失われていく感じはありますね。

RES 私たちの問題意識もそこなんです。大人でも、環境変化に対応し直さないといけない状況が増えていて、そのままだと仕事を失ったり、会社としてのパフォーマンスを上げられなかったりする。資本主義って、同じところで回していればいいわけじゃなくて、ある程度リスクを取って投機的に動かなきゃならない場面がある。

先ほど言われた「カレント・ノエマ(現状認識)」と「フューチャー・ノエマ(将来の意図)」の話とも関連しますが、PDCAとは違うアプローチで「違和感に気づきながら行動し、学習していく」プロセスを組織にインストールできないかと考えているんです。

諏訪 私もそう思いますけど、それは相当大変でしょうね。

RES そうなんです。実際にやろうとすると大変で、どうやったら乗り越えられるかが私たちの問題意識です。

諏訪 結局は、個人個人が本来持っている「問う力」や「とりあえずやってみる力」にかかっているんじゃないか、というのがいまの私の感覚です。そこを組織として動かすのはなかなか難しい。

RES そうですよね。でも、そこを動かせるようにするのが学問の役割でもあるわけで……。

諏訪 もう小学校教育に戻るしかないです。

RES やっぱり早い段階で「踏み出す力」を培えるような環境を整える。それが一番手っ取り早いですか?

諏訪 そう思います。危険を全く排除するんじゃなくて、すり傷程度なら大丈夫、くらいの感覚でやらせる。道草させる。

RES 逆に言うと1回出来上がっちゃった、先ほどのsituated cognitionの塊みたいなやつを崩すのは相当難度が高いと?

諏訪 いや、一旦出来上がってしまった塊をそのまま使うのは、situated cognitionとは言いません。“Situated”とは、その場の状況に応じて臨機応変にカレント・ノエマを起こす、ということですから。

日常への応用――身体知研究と「異界」をめぐる新たな視点

RES 最後に、諏訪さんの身体知研究の最前線についてもお伺いしたいんですが、デザインにおけるクリエイティブ以降、どんな研究をされているんでしょうか?

諏訪 日常生活の例題をいろいろ扱うようになりました。スポーツやデザインだけじゃなくて、生活の中のさまざまな場面ですね。

RES なるほど、例題の拡張ということですか?

諏訪 そうです。「身体知」は、スポーツ科学が扱っているようなものごとだけじゃない。生きることは身体知の塊なので、日々の暮らし全般が研究対象になります。たとえば私の研究室の学生たちは洋服選びから料理のプロセスまで、いろいろなテーマを取り上げています。今年は「日常生活における異界性」みたいなことを扱った卒業研究もあって、面白かったです。

RES それは面白い。異界、ですか?

諏訪 民俗学的な話です。それを研究した学生はホラー的なものが好きで、日常の何気ないシーンの中に「不気味さ」を感じたり「異界への扉」があると感じたりすることがあるらしいです。

諏訪 民俗学や宗教学の領域ではそういう研究事例が山ほどありますよね。たとえば土地の成り立ちがそう。なにかしら怪しい場所とされるところには、地形のアップダウンがあったり、昔からいわゆる「結界」のようなものがあったりします。

もともと神社ってどういう場所にあるのかも面白くて、散歩の研究をしていると大体わかってくるんですよ。神社って「ここから先は異世界ですよ」という場所に建っていたりする。崖の突端とか、町の辺境とか、山に入っていく場所とかにあることも多いです。

RES それをオカルトではなくサイエンスとして扱うには、どんな視点が必要なんでしょう?

諏訪 地形を調べたり、標高を見たり、そういう数値化可能なデータから共通点を探すとある程度「普遍的な知」になり得ます。身体はそういうことを敏感に察知しているのです。神社が特定の地形に多いとか、一方でお寺は地形の条件が違うとか、そういう区別は見えてくるわけです。

RES いわゆる「パワースポット」みたいな話ですかね?

諏訪 そうですね。パワースポットも「結界的な場所」にある場合が多い。しかし重要なのは、自然科学的な説明だけじゃ片付かない部分もあるということです。自然科学で捉えることは難しいですが、現に、人は身体感覚で「何となく不気味、気持ち悪い」と認知します。

RES なるほど。そういう「何となく感じる違和感」って、先ほどの店選びの話にも通じますね。よく店が入れ替わる場所とか。

諏訪 あれも日常における身体感覚、つまり身体知かもしれないです。お客さんがなぜか入りたがらないかには、その土地や空間に存在する何らかの物理的属性が醸し出すものごとと関係するのでしょう。これは「学問にならない」話ではなく、十分身体知の研究領域に入ると思います。

RES まさにシチュエイテッド・コグニション(situated cognition)的ですね。

諏訪 新たな気づきや発見が生まれるときには、そういう認知が働いている。ある種の「違和感」の話でもあります。民俗学や宗教学的なテーマも、身体知探究においては重要なトピックだと思います。デザインもスポーツもそうですが、結局は、身体と現場状況の相互作用から生じる認知の話ですからね。

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諏訪 正樹(すわ・まさき)
1962年大阪生まれ。慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。(株)日立製作所基礎研究所、シドニー大学建築デザイン学科主任研究員、中京大学情報理工学部教授等を経て現職。身体知の学び、コミュニケーションのデザインを専門とする。
【主な著書】
「こつ」と「スランプ」の研究』(講談社メチエ)
一人称研究の実践と理論 —「ひとが生きるリアリティ」に迫るために』(近代科学社)
知のデザイン–自分ごととして考えよう』(共著 藤井晴行、近代科学社)など。

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