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最大の難所「数学的風景」
議論が最も熱を帯びたのは、第3章「風景の始原」です。A自身が「ここに出てくる『数学的風景』をうまく解釈できませんでした」と吐露し、参加者に知見を求めました。
これに対し、会場からは「風景」を“世界の見え方”だと捉える意見が出ました。
デカルトや岡潔といった数学者は、それぞれ異なる数学的フィルターを通して固有の風景を描いたのです。例えば、幾何学的証明(作図)と、記号による数値計算では、世界の捉え方が異なります。道具が変わることで、世界の“見え方”そのものが変わる――それが風景の転換なのではないか。
この議論の中で、ユクスキュルの「環世界」というキーワードも飛び出し、主体が何を注視できるかによって世界が立ち上がるという解釈が示されました。
ここで「理解」は、知識の追加ではなく、世界の切り取り方、すなわち「分節化」の更新になります。
自転車に乗れるようになることと同様、言語で尽くせない感覚を身体が掴むことで変化が起き、それが「わかった」という感覚を生む。数学にもそうした身体的理解があるのではないか、という視点が共有されました。
岡潔の「情緒」と、参加者たちの実感
後半の議論を牽引したのは、岡潔の「情緒」という言葉です。Aは、情緒とは「心の彩りや輝き、動き」であり、自他を超えて広がるものとして紹介しました。数学者は百姓のように「零から創造」し、数学の種を育てるのは心と情緒だという比喩です。
この抽象的な概念に対し、参加者たちはそれぞれの生活実感からアプローチしました。
ある人は「禅」とのつながりを感じ、またある人はカオスから秩序を立ち上げる営みを「アート」と捉えました。手を叩けば振動が広がり、呼吸によって粒子が出入りするように、身体は世界と連続している――そんな心身一元論的な世界観が、岡潔の思想と響き合ったのです。 また、「俳句」を詠む参加者からは、俳句も数学も「言語化しきれないものを、型を用いて他者と共有する技術」ではないか、というユニークな見立ても提示されました。
この流れから議論は「最初の数は何か」へと発展しました。
ある人は、「人間が最初に認識したのは“2”ではないか。男女という分節が先に来るのでは」とカントが語ったとされる逸話を紹介し、二項対立が世界理解の出発点になり得ると投げかけました。別の人は、赤ん坊が言葉を獲得していく過程を手がかりに「自分/相手/それ以外」という参照の三項が立ち上がることで世界が分節化されると述べました。議論は結論を急がず、むしろ“数の起源をめぐる揺れ”そのものが、数学を行為として捉え直す入口になっていきました。
「零までが肝心」――創造の前に、芽吹く条件があります
岡潔のもう一つの核心が、「零から」ではなく「零まで」が大切だ、という言い回しです。
Aはここを掴み切れないとして問いを立て、会場からは「心というより欲求、知りたいという衝動」が零ではないかという応答がありました。そこ(零まで)は人間の意思では作れませんが、そこから先(零から)は育てられる――種子と土壌の比喩はこの関係を指しているのではないか。
理解は、操作(計算)以前の“条件”に根を持つ、という視点が浮かび上がりました。
冷たい数字の裏側にあるもの
終盤には、ビジネスや教育の現場における数学のあり方についても議論が及びました。
KPIなどの数値目標が支配的な現場では、数は無機質に感じられがちです。しかし、今日の議論を通じて、数の受け止め方や提示の仕方を変える可能性が見えてきました。
印象的だったのは、数学と情緒、そして芭蕉が結びつくことへの驚きです。
「数学も芭蕉のように歩むことはできないのか」――歩くことが土地の凹凸に足裏を合わせる行為であるように、数学もまた、頭の中の操作だけでなく、身体・環境・他者との往復の中で“道ができていく”のではないか。企業文化の形成や教育においても、距離を置いて“作る”のではなく、主体的に関わることで風景が立ち上がるという実感が語られました。
RES的まとめ:学びを「行為」として捉え直します
最後に、ある参加者がタイトルに立ち返って結論を述べました。
『数学する身体』が示すのは、数学は「思考」以前に「行為」であるべきだ、ということではないでしょうか。ビジネスの文脈で流通する「数学的思考」が手段的・技術的に消費されがちな一方で、本書は世界の見え方を更新する実践として数学を捉え直します。これは数学に限らず、アート、音楽、俳句など、学び全般に適用できる視点です――という提案でした。
Aは、数学の本質が固定した何かではなく「求められ方に応じて変わり続ける」ものだと改めて感じたと述べ、輪読会を締めくくりました。
この日の輪読会は、数学を「できる/できない」で分ける場ではありませんでした。
むしろ数学を媒介に、「わかる」とは何か、理解はどこで起きるのか、学びはどのように他者と共有されるのかを、参加者それぞれの生活実感(禅、俳句、アート、企業、教育)へと往復しながら確かめる場になりました。
数は冷たい記号ではなく、世界を立ち上げ、分け、つなぎ直すための身体的な道具です――そうした感触が、会場に静かに残りました。
RESmedia編集部
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