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インタビュー

第3回 身体観の哲学 方条遼雨さん(天根流代表、身体思想家)②

『身体は考える』(甲野善紀・方条遼雨、PHP)の著者の一人、方条遼雨氏にインタビューし、3回にわたって教育や学習における身体性と創造性の重要性を探りました。第2回の今回、方条さんは、身体論をどう教育や学習に生かすかについて具体例を挙げ、その独自の視点は、教育現場や個人の学びに新たな視点を提供してくれます。(全3回の②)

身体論をどう教育や学習に生かすか?

RES 身体論について、我々の団体としては大きな方向として、教育や学習に生かしていきたいと考えています。身体観や身体拡張を学習教育に生かす方法もぜひお聞きしたいです。

方条 教育に対して身体論を用いるのは、いいアプローチだと思います。そこで重要なのは、まずやってみることです。当然、教科学習などは、整理整頓されたものも含めて、バランスよくやると効率よく習得はするだろうけれど、子供の頃に必要なのは「体験」です。体験をまず重視し、それから「創造性」ですよね。創造性は発揮できなくてもいいんです。それぞれ能力があるから。ただ、自分で考えて、自分で見つけようとする。見つけられなくてもいいんですけれど、見つけようとするプロセスを体験させるのが大事です。

そういう意味で、昔の中国の試験、例えば科挙でもそうですけれど、作文が重要視されていたんですよね。試験の中に詩とかもあったと思うんです。空海が遣唐使船で事故に遭って漂着して、誰にも知られていないところから中国で認められていったのは、彼の書いた文章が美しかったからという話もあります。空海はその後、中国の密教の継承者になるところまでいきましたが、やはり詩や文章というのは知性の根幹だと昔の中国の人たちは見ていたのでしょう。論理的思考だけでなく、文章によって自分の内面を表現する創造性も含まれていたからです。

なので、作文を書くというのは国語という閉じ込められた一分野だけのものではなく、知性の根幹にかかわる重要な行為だと思います。子供に作文をしてもらうのはとても良いことで、大人が制限を加えずに、子供たちが自分の好きなものを書いてもらうというプロセスはとても有効です。あるいは、何かの実験でも、思うままに試したいことを自分で見つけて、自分で試していいという体験を多くさせることが重要です。あと芸術ですね。知性の根元のエンジンは芸術なんです。感性から派生して論理的思考になります。だから図画工作とかを軽視してはいけないんです。本当はそこから始まっているんです。論理的に何かを覚えたり、整理整頓して表現したり。問題を解くというのは末端のテクニックで、根本的知性を育むには体験させ、創造させることが重要です。

採点は最小限にした方がいいですね。点数が悪いことが悪としない方がいいです。例えば、目的の大学があってそこに入らなきゃいけないならば、どこかでカスタマイズをすればいいでしょうけれど、現代社会に適合したいならば、前段階をできるだけ自由にさせて、そこからだんだん整えていくプロセスを経た方が根本的知性には繋がると思います。

RES 文章を書くというのは、理屈を書くとか何か書き留めるとか、固定化に近いイメージを持っていたのですが、なるほど、文章で自己表現するのも芸術の一つですね。文章=マニュアルと捉えていたのですが、そういう使い方ではないということですよね?

方条 そうですね。誰かが作ったものを文字でただ吸収して再現するだけだと機械になってしまいますけれども、自分の中の言葉にならないものに近似値の言葉を見つけて出力するという体験は、自分の思考を整理する訓練になります。特定の答えを決めて何かをするのではなく、自分の中から湧き上がったものを言葉にするという行為は、感覚と論理を繋ぐ練習としても良いでしょう。

とにかく正解に自分を合わせるのではなく、自分の中にある正解を見つけるという行為をしないと、自分の軸と芯ができないんです。最初から外側に正解を設けてしまうと、自分が空洞化してしまいますから。自分の中にある正解と、芯と軸をちゃんと作り上げ、自分で自分を知った上で外側の世界で生きるために適合していくという順序ならばいいんですけれど、最初から自分を空洞にして、どこかの誰かが決めた正解に合わせると自分がなくなってしまいます。それはただの空洞化したロボットのような人になってしまいますから、今の教育はそれを量産しようとしていると見えます。

非言語領域の重要性

RES 著書の中で、いくつかのテーマを挙げて、甲野先生と対談されています。その中に「触媒」というテーマがあるのですが、そこで「科学ではない言語とは違う伝承方法を考えていく必要がある」と甲野先生が言っていて、それに対して方条先生が幼い頃は言語外機能でコミュニケーションが取れていたけれど、それが大人になると取れなくなっている。今後は文明の発達の中で、言語外機能を使っていくことが大事になるとお話されていました。そこをもう少しかみ砕いて教えていただけますか?

方条 昔の職人の師弟関係では、マニュアル化して教えるなんてことをせず、勝手に盗めという感じでやっていた。それは見た目上の技術だけを学んでも不完全だということなんですよね。形だけはそれなりに点数が稼げるかもしれないけれど、突き抜けたその人なりの能力が発動するところまでなかなかいかない。その時に、伝えきれないエッセンスやニュアンスみたいな部分は、非言語的な情報をその人が肌で感じて吸収して、自分なりにそれを感覚で“食べなければいけない”。それがまさに身体観で、その人の佇まいとか身体、例えば手先を使って何かをする技能の伝承の時に、手先だけじゃなくて、その手先の大元にある背中とか、一見無関係に見える両足での立ち方とかも含めて複雑に絡み合って結果を出している。

この姿勢とか身体観を作っているのは、その人の根本的な思想などが関わってきたりする。だから、その分野と一見関係ない話をその人から聞いたり、その仕事とは全く別の場面でのその人の振る舞いを総合的に観察して「こういうことか」と自分でも言葉にできない領域でも吸収できて、言葉や技巧だけでは取りこぼしてしまう部分がようやく埋まってくる。そういう意味では、教育者のあり方も本当は試される。決められたことを機械的に伝えるのではなく、自分がどういう取り組みで、どういう思想で、どういうあり方で生徒に向き合っているかというところも含めて全部伝わります。

例えば、オンラインの画像情報から得られる情報は少なくないですが、それ以上に生の現場で空気を感じながら言語外の領域の中で得られるものはとても多い。文字情報ではそぎ落とされているけれど、生の現場で対応した時、声のトーンや表情、体の緊張度合いなど、感覚が優れていない人でも相当情報を取得している。

さらに言えば、子供や動物はそれだけでやり取りをしている。鳴き声というのは情報だから論理は入ってないけれど、トーンや音量、声質にニュアンスを乗せている。それだけでやり取りをしているということです。元々人間もそこから始まっている。論理を載せている言葉でも、それを発する声質にそういうものが入っていて、知らぬ間にそれでやり取りをしている。この人は「全然怒ってないよ」と言っているけれど、怒っているなとわかったり、この人は「大丈夫」と言ってるけれど大丈夫じゃないなとか、そういう情報のやり取りは身体観からくるんです。

相手の身体を読む。ビジュアル、空気感、声質、行動などを総合した情報。それがある意味、情報を取る「掌握領域」。それが広ければ広いほど、的確に相手の気持ちや状況を読み取れる人となる。そこは今のデジタル化で、人間として劣化の方向に進んでいるから、意識して育む方がいいと思っています。

【最終回に続く】

 

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