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本当に公平なのは「同じ授業」か、「合った学び」か

—— 従来の一斉授業のほうが、親から見ると「公平」に見えることもありますよね。

苫野 それはあるかもしれません。でも、一斉授業って、全体で見ると、実際にはせいぜい半分くらいの時間や内容しか学べていないという研究もあります。当然ですよね。レベルが合わない子もいれば、つまらないと思っている子もいるし、一斉だと集中できない子もいる。

だからこそ、本当に大事なのは、自分のペースで、自分に合った学び方や場所や仲間を選べることです。「いつ、どこで、誰と、どんなふうに学ぶのがよいか」を、子どもたち自身が選択できること。見た目の「同じ」よりも、子どもに合った学びができることのほうが、実質的には公平だと言えると思います。

競争は、学びの最大のドライバーにはなりにくい

—— では、競争が学びに与える影響については、どう整理されますか。人間には「勝ちたい」「優れたい」という欲望があります。

苫野 いろいろな研究がありますが、一般に、競争は全体のパフォーマンスをそれほど上げないことが実証されています。とくに、嫌々競争させられている場合は、パフォーマンスが非常に悪い。例外として、トップ層や、自分で望んで入った競争なら話は別ですが、一般には、競争は「勝つこと」そのものが自己目的になってしまい、学びそのものへの没入を妨げます。

しかも、負ける経験が続けば自己効力感は下がるし、勝ち続けられる子はごく一部です。どこかで燃え尽きてしまう。学びにとって最大のドライバーは、やはり「学びそれ自体が楽しい」ということなんです。

それに、競争状態になると、協力しなくなります。お互いに分からないところを補い合うより、牽制し合ったり、足を引っ張ったりする。全体のパフォーマンスを考えれば、協力体制のほうが高くなることが多い。もちろん、外部との競争が組織の結束を高める場合など、競争が効く局面もありますが、何でもかんでも勉強を競争ゲームにする必要はないと思います。

今は、スポーツでも、文化活動でも、SNSでも、いろいろな領域があります。自分で選んだ場所で、その欲望を発揮すればいい。戦うこと自体が好きではない人もいるわけですから、それはそれで、自分の追求したいことを追求すればいい。大事なのは、勉強を過度に競争の場にしないことだと思います。

受験が、子どもに虚栄心や劣等感を植え付けていないか

—— 「自由の相互承認」という考え方から見たとき、今の受験はどう見えてきますか。

苫野 やはり、「受験が、すべての人が自由に生きられる社会づくりに寄与しているのか」という観点で見直すことが大事だと思います。もし受験が、過度に競争的な雰囲気を作り、子どもたちに虚栄心やコンプレックスを植え付けてしまっているのであれば、それは自由の相互承認に基づく社会から遠ざかってしまう。だから、そうではない受験の仕組みを考えていきたいですよね。

—— 学校の選び方や、進路の選び方そのものが変わっていく必要がありそうです。

苫野 そう思います。実際、これまでの偏差値輪切りの高校入試・大学入試から外れる学校は、すでに増えてきていますし、その流れは今後も続くと思います。たとえば、FC今治高校のように、既存のパラダイムから離れ、学力選抜ではなく探究に大きく舵を切る学校も出てきています。そうした学校では、「受験のため」ではなく、自分でレールを作っていくような学びが育ちやすい。先日こちらで「本質観取」という「哲学対話」の授業をさせていただいたのですが、その後に生徒たちがやってきて、「哲学対話部」という部活を新設したい、ひいては学外顧問になってほしい、と。あれよこれよといううちに、本当に新しい部活が誕生しました。このような学校が増えていくのは、とてもよいことだと思います。

苫野さん自身が受験で植え付けられた「劣等感」

—— ご自身の学校生活や受験で、一番しんどかった時期はありましたか。

苫野 私は、学校にはずっとなじめなかったんです。子どもの頃から哲学的な人間で、「なんで生きてるんだろう」「なんで生まれてきたんだろう」と、小学校1年生くらいから本気で考えていたので、周りと全然話が合わなかった。

しかも、小学校時代は本当に勉強ができなかったんです。私の地域では中学受験が当たり前のような雰囲気があって、否応なくそこに巻き込まれました。塾でも成績が悪すぎて、親が呼び出され、親の前で問題を解かされて、「この子、こんな問題も解けないんですよ」と言われる。小学校時代は、ひたすら劣等感を植え付けられた時期でした。

—— そこから、学びの面白さを取り戻した転換点はどこにあったのでしょうか。

苫野 中学に「読書科」があって、自分の好きな本をたくさん読めたことは大きかったですね。中学3年で卒業論文を書いたり、論文の書き方を教わったりもしました。そして、やがて「自分がやりたいのは哲学だ」と分かった。そこから、古今東西の哲学書を読み、レジュメを作り、思考がどんどん鍛えられていった。自分や社会の抱える問題が、「こう考えれば解けるんだ」と見えてくる。その面白さに出会えたことが大きかったです。

ただ、自分は勉強ができないと思い込まされた影響は長く残りました。学者になってからも、ずっと「勉強しないと不安」という感覚があった。今振り返ると、30年くらい呪いにかかっていたようなものです。でも、そのぶんたくさん勉強したから今があるとも思います。ただ、本来、子どもにそんな劣等感を与えるのは罪だと思いますね。

—— その経験があるからこそ、今の子どもたちへの思いも強いのでしょうね。

苫野 本当にそうです。今も、同じように劣等感を抱えさせられている子どもがたくさんいると思うと、心が痛い。「あなたはそんなことで劣等感なんか感じなくていいんだよ」と言いたいです。

自由の相互承認のためには、まず自分のことを承認できる、自分をOKだと思えることが必要です。自分を信頼できないと、人のことも承認しにくい。だから私は、学校は「信頼と承認の砦」である必要があると言っています。自己信頼、他者信頼、自己承認、他者承認が育つ場でなければならない。子どもが「あなたの存在そのものが尊い、OKなんだ」と感じられる環境が、教育には不可欠なんです。

評価は、子どもだけでなく教師も変えていく

—— 今、先生方も忙しく、自信を失いがちな状況があります。ScTN質問紙を使うことは、教師にとっても意味があるのでしょうか。

苫野 学びの構造転換がある程度進んでいる学校では、やっていることがきちんと可視化されるので、「間違っていなかった」と確認でき、自信につながる面はあると思います。

ただ一方で、まだ自己選択や自己決定の機会を十分に作れていない学校では、その現実が数字として突きつけられて、ショックを受けることもあるかもしれません。でも、ScTN質問紙は調査して終わりではなく、その結果をもとに授業を改善していくためのツールです。最初は厳しく見えても、それを起点によりよい授業に変えていけるなら、大きな意味があります。

—— 初めは反省があっても、積み重ねていけば改善していく、と。

苫野 そうですね。そこはかなり如実に現れてきます。現場の後押しにはなると思います。


苫野 一徳(とまの・いっとく)

哲学者・教育学者。熊本大学大学院教育学研究科准教授。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。
経済産業省「産業構造審議会」委員、熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。

【主な著書】
どのような教育が「よい」教育か』(講談社)
勉強するのは何のため?』(日本評論社)
教育の力』(講談社現代新書)
「自由」はいかに可能か』(NHK出版)
はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)
「学校」をつくり直す』(河出新書)
』(講談社現代新書)
NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』(NHK出版)
学問としての教育学』(日本評論社)
親子で哲学対話』(大和書房)など

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