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イベントレポート

AIが「知」を増やす時代に求められる「総合智」——大庭良介氏が語る、判断を生む往還の方法【イベントレポート】

2025年12月20日、筑波大学教授の大庭良介氏の新著『総合智への方法論 インテグリティーとインティマシーの軛を超えて』(丸善出版)の出版を記念したNPO法人RES主催のセミナーが開催された。ここでは前半の大庭氏による基調講演をレポートする。

「賢くなるAI」と、楽にならない意思決定

RESは、教育サービスを「社会共通資本」と捉え、サービスのあり方を検討する場とネットワークづくりを進めている。イベントに先立ちRES理事長は、AIをはじめ「ものすごく大きな環境変化がある中で、どういうものが今後の教育とか学習に貢献するのかは、まだみんな答えがない状況」と語り、だからこそ大庭氏の議論を共有する意義があると説明した。

掲げられた講演テーマは「AI時代を生き抜く総合智とは」。生成AIの進展が目覚ましい一方で、社会の分断や意思決定の停滞が深まる今、教育は何を育て直すべきか。

講演の冒頭、大庭氏は自ら「AIの力を借りてスライドを作っています」と明かし、急速な進歩を実感として語ったうえで、「AIは急速に賢くなっている」と指摘した。文章生成、分析、最適化など、人間が「知的」と呼んできた営みが高速・大規模に代替される状況は、学び手にも教え手にも直接の衝撃を与えている。にもかかわらず、社会的な意思決定が容易になったとは言いがたい。大庭氏は、知識へのアクセスが増えても「判断が難しい」ままなのは、結局「どういった知をどのように使うかが整理されてない」からだと述べ、問題を「知の方法」へと引き寄せた。

大庭良介氏

この指摘は、AIの出す答えを「当てにする」だけでは、むしろ迷いが増えるという現場感覚とも響き合う。大庭氏自身、卒論指導の場面で「もうAIに聞いた方が早いです」と語り、教員の役割は「このAIが言ってることは信じていいよって。その一言」——判断の基準を与えることへ移りつつあると述べた。

この整理は、教育の現場にもそのまま当てはまる。AIが要約や解答例を瞬時に提示する時代、児童生徒に不足しているのは「情報」なのか、それとも情報を扱う「型」なのか。大庭氏が提示したのは、後者——知を活かすための視点と方法を編み直す「総合智」という概念である。

「総合智」は足し算ではない

大庭氏は、国の政策で語られる「総合知」とは別に、あえて「智」の字を用いる。総合智とは「個別の知識を足し合わせることではなくて、異なる知の使い方をつなぎ直す能力です」と定義する。学際的にAからBへ渡り歩けばよい、という「学びの横断」でもない。まして知識の寄せ集めや、AIと人間の「能力競争」でもない。必要なのは「どのように知を使うか」を往還できる力だという。

その主張の背景には、講演で語られた大庭氏自身の遍歴がある。もともとは微生物・分子生物学の研究者として、病原細菌や薬剤耐性の研究を進めつつ、膨大な生命科学論文をデータ分析する研究にも取り組んだ。この学問分野の年間論文数を「今年ぐらいだと180万ぐらい」と示し、蓄積が増えても「生命とは何か」「病気とは何か」が見えてこない経験が、方法論の問いへと転じたという。研究費配分と論文動向を突き合わせた分析では、選択と集中が万能でない現実から「結論は何かというと、ばらまき」とも語り、芽が見えない領域では特定のテーマに“賭け”るのではなく、まんべんなく水を撒く設計が要ることを示唆した。知が増え、評価軸が細分化するほど、判断の困難さは増す——講演全体を貫く問題意識は、こうした研究経験から培われたものだ。

さらに武道や気功、漢方医学へと活動領域を広げ、科学と伝統的実践の間にある認識の違いを掘り下げてきた。「型と科学っていうのは兄弟。認識形式論的には同格」と述べたくだりは、科学か伝統かという二項対立を越える視点を象徴する。

世界の見方を分ける「インテグリティー」と「インティマシー」

総合智の基盤として大庭氏が提示したのが、トーマス・カスリスの枠組みである。世界の見方(認識形式)には大きく二つがある。第一がインテグリティーで、対象は「独立、完全に存在してますよ」という見方だ。対象同士は外的な関係で結ばれ、婚姻届や出生届のように、関係は「外側」に置かれる。切り取り、分解、分析、比較——近代科学や制度設計、そしてAIの基底にも、この様式があると大庭氏は整理した。

第二がインティマシーである。こちらは対象が内的に重なり、相互依存しながら成立する。大庭氏は、親子関係の喪失が人生を一変させる例を挙げ、関係が失われると「形そのものが変わってしまう」ほど深く重なる在り方を説明した。また、コーヒーカップとソーサーの例では、カップが割れればソーサーの価値も失われるような「一体で最初から存在してる」見方を示す。

提供:大庭良介氏

両者の違いは、責任の捉え方にも現れる。インテグリティーが前面に出る社会では、問題が切り出せるため「責任の所在を明らかにする」文化が生まれる。他方、相互貫入が前面に出る社会では問題の在り処が特定しづらく、象徴的な人物が「責任を取りますと言ってステップダウンする」ような文化が生まれるという。教育の評価や学校事故対応、いじめの「責任」論にも通じる示唆だろう。

大切なのは、どちらか一方が正しいという話ではない。インテグリティーは科学・制度・技術の発展を支えてきたし、インティマシーは共感や身体性、物語の力を蓄える。問題は「どちらか一方を過剰適用している」ことで、問うべきは「正しさ」ではなく「知の使いどころ」だという。ここに、総合智=往還能力の必要性が浮かび上がる。

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