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セミナーレポート

『身体(からだ)は考える 』(「身体知が学びの新たな地平をひらく」vol. 2)後編

R.E.S主催セミナー「身体知が学びの新たな地平をひらく」の第2回『身体(からだ)は考える』は、2024年7月7日に開催しました。「身体(からだ)は考える」の著者である方条遼雨さん(天根流代表、身体思想家)をお招きし、「上達論」「身体と知性の関係」について語られた本セミナー。後編の今回は、方条さんとR.E.S.理事長の束原との対談の模様を一部抜粋してお伝えします。

主観的身体感覚と客観的身体感覚

理事長 ここまでのお話を伺って、教育や学習の観点から整理させていただくと、方条さんの話の中心には「主観的な身体感覚」と「客観的な身体感覚」という2つの視点があるように感じます。現代社会では、客観的な身体器官の方に強制的に依存されるような社会にどんどんどんどんなってきていると感じるのですが、これは滅びの道に近づいていると思うんですね。

方条 そうですね。どういう滅びの道かは、簡単に言うと主観的な信頼感の強さみたいなのが失われていく。例えば、お湯が蛇口から出るのが当たり前になっていると、その仕組みがわからないまま生活してしまう。その結果、いざお湯が出なくなったときにどうして良いかわからなくなる。こうした脆弱さが、現代社会に蔓延していると思います。

社会全体が、技術やシステムに依存することで、私たちの感覚はますます与えられたものに縛られ、主観的な感覚や信頼が失われつつあります。かつては、自分の感覚や身体にもっと信頼感がありました。自分の身体感覚を信じる力が、どれほど重要であるかが今はずいぶん忘れ去られてしまっています。それが、現代社会における深刻な脆弱性を生んでいるなと感じます。

理事長 確かに私たちは日々の便利さに慣れきってしまい、いざというときに自分の感覚に頼ることができないことが増えています。技術の進化と引き換えに、私たちが失っているものが大きいですね。

方条 そうですね。便利な技術に囲まれた現代社会では、何かが壊れたり不具合が生じたとき、すぐに誰かに頼るか、新しいものを手に入れようとしますが、その前の「どうしてこれが壊れたのか?」「自分で直すことはできないだろうか?」と考える力を失いつつあるんです。これは、私たちの生活全般における脆弱性を象徴していると思います。

「本物」とは何か

理事長 方条さんは「本物の技術」という言葉を使われましたが、これについてもう少し詳しく教えてください。「本物の技術」とは具体的にどのような技術を指すのでしょうか?

方条 「本物の技術」は、ただ何かをうまくできるとか、道具を上手に使えるということではなく、その技術がどのように成り立っているか、そしてその背後にある身体感覚との結びつきが重要です。

理事長 それは武術を通して感覚器、あるいは身体性の深みとか高みとか、そういうものが見えてるという感覚なんでしょうか?

方条 例えば、元々私はミュージシャン志望だったのですが、最近何かちょっとしたきっかけで再開するようになったんですけど、昔よりも今の方が歌えるようになっていて、作れる曲のクオリティーも上がっていたんです。その頃と現在一番違っているのが身体感覚です。

自分の身体の解像度を上げたとき、マルチタスクで自分の体のどこで、何がどういうふうに起きてるのかを把握する能力が、自ずと高まっていました。

身体感がもたらしてくれるものはとても広範囲で、一見知性だけの作業とか文化的作業に見えるものも、すごく身体が作用しているのです。

たとえば曲を作るときにも、昔よりも頭に浮かんだ曲のそれぞれの楽器がどう鳴っているか聞こえるようになりました。私はそれを実際弾いたりとか、コンピュータで録音する技術は持っていないので、一緒にやってるプロのミュージシャンの方に音を伝えて作るのですが、その際、この楽器でこういう音色でこういうフレーズを入れてくださいっていうのが以前より具体的にできるようになりました。

昔は頭の中の音を探すのに、もっと時間がかかったんですよ。でも今は、かなりのスピードでそれが追えるようになっています。自分の声のコントロールも身体のコントロールの一つなので、以前よりもできるようになっていました。

他にも私は料理を全然やらないんですけど、以前より料理が多分上手になっていると思います。

私は新しい技が生まれるとき、まず技をかけ終わった後の感覚が現れて、それを再現するように体が動きます。先に結果があって、そこから技が体に現れるんです。そのプロセスが、料理を作ることにもどうやら繋がっていて、この調味料とこの調味料を混ぜるとどういう味になるというのがぱっと浮かぶようになってきたんです。私の場合は味付けレベルの話ですけど、そういうふうに身体感はいろんなところに波及しています。

理事長 ただ、武術はやっぱり強くなることが念頭にあると思うんですけど、方条さんは身体の使いこなしとか、コントロールとかそういうことに重きを置いているということでしょうか?

方条 武術は、分野、流派がいっぱいあるし、同じ流派の中でも教える人によって全然違います。音楽を一つとっても、ジャズもあればテクノミュージックもあれば、ルンバもあるみたいに全然違いますよね。

そうした中で、私は自分の武術を「玄武術」と呼んでます。玄っていうのは根本的、根源的っていう意味なんですけれど、原理を大事にしているんです。

ここを押さえておけば、全てに通じるものを育むことができるという考えです。身体との対話を通じて自身への認識と応答性を高め育む。これがベースにあります。ただこれは少数派だとは思います。多くの場合は技術と形から入りますからね。

理事長 なるほど。一方で、教育現場で子どもたちに「本物」を伝えるためには、どのようなアプローチが効果的でしょうか?

方条 まず、面白い大人にどんどん会わせるっていうのはいいと思いますね。その面白い大人は、本物を吸収して作品として現れた人格である場合が多い。つまり、本物に触れて出来上がった面白い大人をどんどん子どもに会わせて、ちょっと話してもらったりとかするだけで、子どもは情報をたくさん取ります。

佇まいとか口調とか何かちょっとした仕草を見るだけでも、様々な情報が入ってきています。彼らは情報を食べてますからね。

型、守破離

理事長 前回、「型」や「稽古」、「守破離」といったようなことを扱ったセミナーを開催したのですが、実際にそういったものを習得するプロセス、方法はどういったものが考えられると思いますか?

方条 型に対する私の位置づけは、「原理を運ぶ器」です。これは抜群にできた先人が身体感覚とセットで受け渡してきたものを、今、例えば歌舞伎だとか、もしかしたら落語とかもそうかもしれないけど、受け継がれてきていると思うんです。

だけど、今の武術とか身体分野の多くは戦争を経ておかしなことになっている。戦争っていうのは手っ取り早く使い物になる駒を大量生産しなきゃいけないから、原理などに着目してる暇がありません。

とにかく一定数、潰れたり死んだりしても、ガンガン追い込んで使える兵士が出来上がればいい。そういう身体観に変わってきたと思うんですよ。戦後になっても体育会系は軍隊ごっこみたいなものですからね。

そうして先人たちが育んできた器の中身の大部分は、こぼれ落ちてしまっていると考えています。形だけが継承されている場合がすごく多い。そうなると型はただのダンスですから、形骸化していると思います。

また、型を作った人は、型から学んでいないんですよね。だって型を教えてくる人がいないんですから。その人が独自で得た身体感とか、その人の中の原理から湧き出たものを、2代目以降が型として継承する、という順序なはずなんです。つまり型で学んでいる人ですら、もうそのプロセスを辿らない限りは、創始者と同じ世界は見れないはずなんです。既に初動から違う。型を作った人は他から学んでいるので。

それでも優秀な創始者に直接触れたり、見たりしているうちは似た景色が見れるんですけど、どんどん劣化はしますよね。自分なりのものを、新しい水を加えたりしない限りは。だから学んでいても、受け継いでも、自得しないとその人のものにならない。自分で考え、自分の感覚と対話して、ようやくそのこぼれ落ちていく部分を補える。そういう位置づけです。

極端な話、別に型に沿わなくても自分と対話すれば自分で型が作れるようにもなってくるんです。型が作れる人が型を学んだときは、答え合わせになったりもするでしょう。内部との対話を抜きにしたならばすっからかんになるでしょうね。

本来は型を作れるレベルまで行く人も、自分の感覚をちょっと高めたいっていう人も同じ枠組みの中で学べる。私の教室も、例えば60代の主婦の方から格闘技チャンピオンまで同じ練習をやっています。

理事長 型は受け継いだ後、変わっていく。あるいは変えていってもいい。そういうものでもあるわけですね?

方条 変えるというよりも新たに作るということです。ただ、作った方がいいけれども、伝統があり、練り上げられた型ってそんなに生易しいものではないです。

今よりも身体をさんざん使ってきた文化の中で、飛び抜けた化物みたいな天才がその精髄を込めた型をおいそれと変えていいのかという問題はありますから。だからそういうものをちゃんとリスペクトして守った上で、新たに創造できるだけのものをその人が持っているかどうかは重要だとは思います。ただ、そこまでいかなくとも先人の精神を守りながら、私はこれを提案しますよという枠組みの中で、クリエイティブに型を作るのはどんどんやってみてもいいと思います。

理事長 これは守破離というものと重なるように感じますが、いかがですか?

方条 私は守破離というものは、守と破と離を分けていたら一生あっても間に合わないと思っています。

天才と呼ばれた人たちは、守も破も離も1日目から同時に始めているはずです。守破離という言葉にとらわれ過ぎないようにした方が良いと私は思います。たとえば守破離を忠実に守るように稽古を進めていたら、私個人の実力は今の100分の1以下だったと思います。

身体感覚の重要性と脱力の役割

理事長 最後に、身体知というものをどう学びの中に取り入れていくかを考えたいと思います。そうしたとき、「脱力」というものの位置づけを理解する必要があると思っています。いろんな意味で、肩肘に力が入っているとちゃんとした体の使い方ができないわけですよね。それこそ歌のパフォーマンス一つとっても力が入っているとうまく歌えない。あるいはゴルフを例に出すと、あまりにもクラブに振り回されすぎてボールにうまく当てられないとかですね。「脱力」をどういうふうに捉えるかというのは、パフォーマンスを上げる上でも基本中の基本だと思うんですが、「脱力」はどういうふうに位置づけておられますか?

方条 「脱力」は「身体的な脱力」や「思考の脱力」、「精神の脱力」など、あらゆるものに波及する概念だと私は考えています。

言い方を変えると「余分なことをやめる」のです。

『身体は考える』では「最小限で済ませる」と書いたと思うんですけど、最小限で済ませるということは、要するに余分なことをやめるってことなんです。余分なことは身体のあらゆること、あらゆる部位、あらゆる行為で起こる。その余分に気づきやめていくということは、思考のプロセスでもあります。

なので脱力は身体だけでなく、実生活など様々な分野にも役立ちます。 例えば、組織作りでは、この習慣いりますか?このハンコいりますか?など、身体感覚レベルで、あるいは事象を身体に当てはめて無駄に気づくことができるようになります。

その人の思考は、本来身体感から波及しているのです。

理事長 なるほど。今回のお話は、どんなことにも、色々な考え方にも活用ができるような話だったと思います。根底にあるのは身体知ですが、人間が身体を使って生きている以上、これを出発点にして概念そのものを拡張していく。これはおそらく、今の人類全体が抱えているような課題というものを解き明かす道にも繋がってくるんじゃないか、こういうことが非常によくわかった時間だったと思います。

R.E.Sの趣旨としましては、シリーズで身体知を深めるということなんですが、本当に今日のお話は、そこに一つの刺激を与えてくださったお話だったと思います。ありがとうございました。

方条 ありがとうございました。 

 

【前編】を読む


方条遼雨(ほうじょうりょうう)
天根流(あまねりゅう)代表。
エッセンシャル・マネジメント・スクール講師。
身体思想家/心体カウンセラー/玄武術家/身体思想によるアドバイザー
著書:『身体は考える』『上達論』(甲野善紀共著/PHP研究所)

甲野善紀、中島章夫に武術を学ぶ。
「心・体の根本原理の更新」と脱力に主眼を置いた「玄運動(げんうんどう)」「玄武術」を提唱。
師の甲野と合同講師も務める。

「心と体は完全に同一である」という独自理論から、「心体コーディネート」「ふかふか整体」を考案。
提唱する理論を元に組織・ビジネス・政治・芸術・体育など分野を問わないアドバイザーとしても活動している。

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◎西條剛央(エッセンシャル・マネジメント・スクール創設者)
◎方条遼雨
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