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RESの視点

Vol.5 フレイレと「対話による教育」あるいは「相互学習」【RESの視点】

「対話」には、世界が入ってくる。

「対話」の意味

教育において「対話が大事」と言われて久しいですね。
では、ここでいう「対話」とは何を指すのでしょうか。

互いに話し合うこと?
互いに教え合うこと?
互いに学び合うこと?

佐藤学さんは『学校を改革する』の中で、協同的学びを導入する前提として、次のように述べています。

「教え合う関係」と「学び合う関係」は決定的に違う

「教え合う関係」は、わかっている子どもがわかっていない子どもに一方的に教える関係であって、両者の間に互恵的関係はない。それに対して「学び合う関係」は、わからない子どもが「ねえ、ここどうするの?」と質問することから出発する学び合いであり、わからない子どもとわかっている子どもの両方に恩恵をもたらす互恵的関係が成立している。

対話は、世界に対峙している二人が行う営みと言ってよいでしょう。相手に向かって語っているようでいて、「自分は世界をこう見ている」と語るとき、人は目の前の相手だけでなく世界そのものに向き合っています。「学び合う」とは、「世界を学び合う」ことだと捉えられるのです。

先生がいて、生徒がいる。先生から生徒に知識を渡す――そうした関係ではありません。

まず世界の前に「先生」と「生徒」の二人がいる。先生は、たとえば地図を見ながら自分が旅した国について語る。生徒は、同じ国について自分が読んだ本の話をする。言ってみれば、互いに地図を手がかりに連想したことを交わし合う。これが「学び合う」という関係です。

知識に差があるとき

もちろん、先生のほうが生徒よりその国について詳しいことはあるでしょう。その場合の対話は何を意味するのでしょうか。

フレイレは言います。

対話を大切にし、問題志向型の教育をする者にとって、プログラムされた教育というものはただ与えるものでもないし、押し付けるものでもなく―つまり教育される者に流し込まれるようなものではなく―それは人々からきちんと形になっていないものとして手渡されたさまざまなことを、組織的に、体系的に、より発展した形でフィードバックしていくことを意味する。

生徒の世界の見方が必ずしもきちんと形になっていなくても、その見方に応答しつつ、より発展した形で自分の見方を返していく――これが対話の核心ではないでしょうか。

「よき人間をつくる」のではない

フレイレは続けます。

本当の教育とは、AがBのためにやるのでも、AがBについてやるのでもなく、Bと共にAが世界を仲立ちにしながら行うものだ。

ナイーブなヒューマニズムの概念の間違いのひとつは、「よき人間」の理想像をつくろうとしたがることで、そこにいて現存する人間の確かなありようを忘れてしまうことだと思う。

「よき人間をつくる」ことを目標に据えるのではなく、「世界をどう見るかを交わし合う」こと――ここに「対話」のまったく異なる意図があるのです。

 

参考文献・引用・注釈

『新版 学校を改革する――学びの共同体の構想と実践』佐藤学
『被抑圧者の教育学 新訳』パウロ・フレイレ(三砂ちづる 訳)、亜紀書房

 


RESmedia編集部

 

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