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RESの視点

Vol.4 フレイレと「学びの主体性」【RESの視点】

「学びの主体性」は、評価できない。

「主体性」の評価の比重が小さく

フレイレの話を続けます。

文部省が、「主体性」の評価の比重を小さくするという案を示しました。

日本経済新聞の2025年7月5日付の朝刊には、以下のようにあります。

文部科学省は4日、学習指導要領の改訂を議論する中央教育審議会の特別部会で、小中高校の成績の基となる学習評価を見直す案を示した。「主体性」の評価の比重を小さくする。内申点にも影響するが、客観的な判断が難しいとの指摘があった。2030年度以降に実施する見通し。

(中略)

主体的な態度は20年度以降、小中高校で順次、評価の観点に加えられた。教科ごとに、「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点についてA~Cで評価。この観点別評価に基づき、各教科の「評定」を小学校は3段階、中学校は5段階でつけている。

(中略)

導入当初から学校現場では「何を根拠に評価したらよいのか分からない」という声が上がっていた。
「知識・技能」はペーパーテストの点数、「思考・判断・表現」は作文や発表などに基づいて判断しやすいが、主体性は定量的にはかることが難しい。

それは、そうなりますよね。

そもそも、当初の制度には、

主体的な態度を評価の観点に加えた背景には、社会が激しく変化するなかで、自ら課題を見つけ、学んだ内容を生かして解決を目指す人材を育成したいとの狙い

がありました。これ自体に異論はありません。しかし、「学習における主体性」を評価するとなると、ちょっと待って、と言いたくなります。

学習とタスクの混同

ここでは、「学習を主体的に行なっていること」と「能動的にタスクをこなしていること」の間に混同が見られるように思うのです。

例えば、ビジネスの現場では、主体的に動いていない人材は、低い評価をつけられることがあります。しかし、それは、学習とは何の関係もない。あくまでも指示待ちになっていないか、タスクを主体的にこなそうとしているかを判断しています。(この場合、「主体的」というより「能動的」といった方が近いかもしれません)

「学習における主体性」というのは、あくまで学習者の頭や心の中でのことです。何かタスクを与えれば、「能動的に行動しているかどうか」は、判断できますが、この時、生徒が学習を主体的に行なっているかどうかはわかりません。逆に「能動的に行動していない」からといって学びが起きていないとも言えません。

仮に、能動的に行動していても、いつも主体的に学んでいる状態を保つのは大人だって難しいし、ましてそれを他者に示す必要があるのかどうもよくわかりません。能動的に行動していても、自分を振り返る余裕がなければ、学びにつながらないことだってあります。

「問題提起型教育」は教育側の問題

フレイレは、確かに、受動的な知識の集積では真の学習は起きないとして、学習者が主体的に問題を発見し、解決していく教育を「問題提起型教育」として、提唱しました。しかし、これは、学習する側というより、教育する側がただ知識を授けるだけの教育をするなということを主張しているわけです。

つまり、生徒の側に求めることではなく、先生や親が意識すべきことととらえているのです。

「主体性」という観点で、生徒側に意識させても良いことがあるとしたら、クラスの学びへの「貢献度」というのが挙げられます。自分の学びだけではなく、クラスメイトが学ぶことに貢献しているかは、それ自体クラスが何を学ぼうとしているかを考えるきっかけになりますし、主体的な行動として判断もしやすい。

これは、次に扱う「対話による教育」あるいは「相互学習」の話につながります。

 

参考文献・引用・注釈

『被抑圧者の教育学 新訳』パウロ・フレイレ(三砂ちづる 訳)、亜紀書房

 


RESmedia編集部

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